《漫画みたいな?》
先日ひょんなことから、時間をかけて漫画を読む機会を得た。
出先で、速やかにPCを使ってしなければならない作業が発生した為、自由に使えるものが一台ずつ置かれたスペースが沢山ある、漫画を読んだりゲームをしたりする様な店の一間をお借りした。
ドアを閉めると身動き出来ない位の狭い空間がぎっちり並び、上から見たら多分製氷皿に似ている。
作業は驚く程さっさと済み、時間に大分余裕もあったので、この所なぜか意識に浮かんで少しずつ観直しているドラマの原作漫画を読んでみようと思い立った。
最近の宮司は、日々ありとあらゆるジャンルの用事が押し寄せて来るのを、じゃんじゃん打ち返しながら過ごしている。
誰かが創作したものに触れる機会はほぼ無く、強いて言えばそのドラマと、移動時間に小説を少しずつ読む位。
漫画を、それも何冊もまとめてしみじみと観察するチャンスはまずなかった。
この日も用事が山積みで、目当ての仕事が済んだ時点で、とっとと帰っても良かったはずだった。
だが、何故か足が止まり「あの原作」と、イメージがポンと浮かんだ。
こうした波には、乗ってみる。
次の予定ギリギリまでその作品を読み、集中して観察した。
そしてやはり、深い気づきを沢山頂戴した。
その一部を本日記事にて、書かせて頂く。
紙の中で動いている人々は、「どんな人」なのか分かり易い様に、それぞれ決まったキャラクターと言うものを持っている。
大体その設定に沿う動きをし、その人物がしなさそうなことは、まずしない。
「そんなの当たり前でしょ」と思われるかも知れないが、読んでいて宮司が「…あ!」と気がついたのは、
このキャラ付けが、2018の不覚社会そのものでも、頻繁に行われていると言うこと。
つまり、リアルがフィクションに、寄せて来ている。
「Aさんは、○○キャラだから」
こんな認識が普通にまかり通っている。
実際は皆様ご存知の様に、「○○キャラな人」など、存在しない。
正確には「○○キャラでしかない人」など、存在しない。
○○キャラは、その人物を通して表われた性格の一部であり、全てではない。
全ての人型生命体は本来「誰でもない者」であり、そこに様々な色に分かれた「制限」をわざわざ着込んで、不覚ゲームをしているのだ。
ああ、それじゃ物理次元では苦しいだろうなと、納得した。
漫画やドラマの登場人物が決まった性格付けをされているのは、決まったストーリーの進行に沿う為である。
未知を未知として瞬間瞬間味わう為の現実世界が、その風習に倣う必要は全くない。
それぞれに、存在の趣旨が違うのだ。
有り得ないことを「漫画みたいな」と形容していた時代もあった。
2018周辺の不覚社会は、それこそ漫画みたいに「分かり易い幸福」「分かり易い充実」「分かり易い興奮」をデータとして打ち込まないと、もう生きている感覚がしなくなっているのかも知れない。
「三次元の二次元化。ディセンションて、そう言うことじゃないんだが」
と、何ともやるせない気分になった所で、時間いっぱいとなった。
照明を落として薄暗くした箱の集合みたいな店から出たら、眩しく日が照っていた。
全体輝いていて、景色がどこまでも広がり、風が街路樹の葉を撫でながらその間を四方八方に抜けて行く。
次にどちらから風が吹くか、いつ雲が影を作るか。
物の動きも、人の動きも、展開を全く予想出来ない。
いやっほう
手放しの喜び(イメージです)。
そんな感覚が湧き上がって来た。
フィクションにはフィクションの素晴らしさがある。
だが真のノンフィクションであるリアルを心底から愛していなければ、生み出されるフィクションにも真の命が宿ることはないだろう。
リアルが基本。
(2018/5/7)