《涙と共に?》
“涙と共に種を蒔く者は 喜びの歌と共に刈り入れる
種の袋を背負い、泣きながら出て行った者は 束ねた穂を背負い
喜びの歌をうたいながら帰って来る。”
実りの秋と言うことで、上の詩編を思い出した。
ご覧になって明らかな様に、当宮には広告や販売の要素がない。
糧を得る麦や稲の穂ではなく、花の種を風船につけて飛ばす感じの試みである。
何処に行くのか、行った先でどんな花が咲くのかも分からないし、
咲いているのかも分からないし、特にこちらから確かめることもしない。
それで十分満足なのは、上や物理次元全体から種を受け取って、様々な色の風船にくくりつけること自体が、既に喜びを超える「歓び」だからだ。
涙と共にの「涙」が感極まる喜びの涙であれば、収穫も又、喜びの涙が湧くものとなるだろう。
同じものが引き合うし、放ったものは同じノリの返しを連れて来る。
金銭や尊敬や支持や情のエネルギーを集める為に、「仕入れ」に走って種を買い集める者は不覚社会に大勢居る。
次こそはと泣きの一回でかき集めた、なけなしの銭で話の種や自慢の種を仕入れ、蒔いてみても美味い稲や麦とならなかった時、
「いつになったら喜びの歌を歌えるんですか」!
「後何回泣けばいいんですか!」
と、恨めるのは不覚にあるから。
その嘆きの感覚も、足らない感覚も、疲労感も、よく分からない。
山程の風船に黙々と花の種をつけながら、只出て来るのは
「得る為に泣いてるからでしょうが」
のシンプルな一言位だ。
「蒔いた種でボーボーになっちゃったんで、刈り取って片付けるのを手伝って下さい」
そうした申し出をごく稀に伺うが、一緒に刈るのは無理な話だ。
変な涙や争い含めどんな種も蒔くのは自由、その代わり何であれその者自身にしか刈り取ることは出来ない。
まともな味のする麦や稲を育てようとする者は、喜びと共に蒔くことが必要となる。
ちちんぷいぷいの手軽さはないが、働きそのものが喜びであれば当然に苦ではないだろう。
することが多く広く深い程、喜びも多く広く深くなり、それは世界全体として振動する歓びとなる。
花の種を空に飛ばし続けることは、楽しいし面白い。
誰知らずとも、我知らずとも、大体我がもうないが、ありとある不覚の徒が知らずとも、天も地も花が咲くのを観ている。
至極満足である。
よろこびが、無垢かメッキか分かる秋。
(2018/10/22)