《海 その愛》

 

 恵比寿にも関連して先日、についてちょいと調べる機会があった。

 


 は「生み」や「産み」に繋がり、大地と並んで、この歌の世界にも描かれているように(生命の)母とされて来た。

 

 生む・産むとは己から別の存在として放つ、つまり手放すことでもある。
 それが得たものを掴んで離さず、漢字の月(にくづき)で表される肉体に留め続けると、になる。


 みは、情報という水の要素が濃くなり過ぎた為に起こる現象。
 昇華するには金輪際の集中という火入れが必要となる。

 

、揃って初めてカミだからである。

 

 物理次元に横行する熱狂は、膿んだ所が熱を持っている状態
 狂いに納まる程度のそんなそこそこの熱は、集中の火そして変容の炎には及びもつかない。

 

 表層だけ身を焦がして、中まで火が通っていない。

肉なら美味いが。あ、焦げたてら不味いか。

 
 変容の炎とは一瞬で全てが刷新される人知を超えたもので、何の感情とも紐付いていない。

 心温まる話で全俺が泣こうが変容はしない。

 

 

 海は「さんずい+毎」。

 

 あらゆる入れによって毎瞬あたらしく入れ替わり、進化するのが真の海、本来の海である。
  物理次元全体が光波で満たされた光の海であるが、覚不覚を問わず見ることができるは、光の海の分かりやすい見本となる。


 について、何の気なしに読んでいた本によって、先日びっくりするようなことを知らされた。


 地球を、学校に置いてあるような地球儀サイズに縮小すると、の表面を軽く湿らせた程度

 

軽く湿らせた程度?!

 

嘘でしょ?!


 広大なはかり知れない夢とロマンのふるさとでお馴染みのあのが、

 時には板子一枚下は地獄となるというあのが、

 加山雄三がその身を預けるあのが、

 

軽く湿らす程度。

 

 

 実際剥がして丸めてみるとこんならしい。

 

 部分ハゲのメロンみたいなのが水なしの地球、横のビー玉みたいな青い丸が水である。

 

  このことを知った時、立ったまま目の前に広げた本を読んでいたのだが、両手を机について膝から崩れるのを抑えた。
 椅子に座ってたら滑り落ちていたろう。

 

 真剣に再読し、その意味を反芻し、感嘆の息が漏れた。

 

 これだから物理次元はやめられない。
 久々に青天の霹靂な痺れ感である。


 けして海を軽んじている訳ではない。


 地球表面の7割を占め、地球にある水の97.5%が集まるという海。

 それが、湿らす程度ということは、

 

その下(奥)がどれ程、深遠かということ。

 

 

 なるものはにも、と同様に「なるものはにも」。

 海と地球の姿は、我々の変容後の「のびしろ」が、如何に途方もないかということも表している。

 そして球体の深遠は全てが、無限につながるゼロポイントという一点に集約される。

 

 しかし「俺の海」が湿らす程度とは。


 言われてみりゃあ確かにそうだが、その視点がなかったので衝撃だ。

 

 ちなみにとはであり、物理次元の部分をちょっと折った目印である。

 本のページの端をちょこっと折った三角が、
 

本(ほん・もと)に繋がっていない


 ことがあるだろうか?


 表層の名は目印なだけだ。

 意識の中で折れを取ると、目印でしかない状態を抜け、本であり読み手でもある全母(虚空)と一体になる。

 

「お母さん、お話読んで」

「じゃあ今日はここからね」

 

 が、同時に行える(味わえる)ようになるのだ。

 

 海の愛は深い。

 しかし虚空の天意は更に深い。


 でもありでもあり、そこを超えた全てでもあるのが我々の本来である。

 

「う~みよ~、おれのう…

湿り気?

(2016/7/18)