《流れ流れて》
追い風、向かい風。
変容の時代にはこれらがよりはっきりして来る。
一部の者が都合よく風を操ることが出来た時代は既に終わったからである。
まだ名残りを惜しんでいる場所もあるが、もう大して操れてもいない。
繁栄を意志しているなら、全一の流れに沿うしかないのだ。
流れに沿うと、追い風によって「あれよあれよ」と言う間にコトが運んだり、驚く様な集中力で根気良く仕事を進めることも出来る。
「前ならとてもじゃないが出来なかったろうな」と感じることにもトライ出来る。
一方、流れに沿わない動きは、虚空の後押しがないので当然に上手く行かなくなる。
もう必要のない場所にエネルギーが注がれる時代ではない。
そして目が覚めていると「行っていることが全体にとって必要」かどうかが、自然と分かる。
不覚社会と連動して一時見当違いの方へ進んでも、直ぐに修正される。
不必要にも、何となしに気がつくのだ。
認めざるを得ない程、運びがのろくなるし、それでも「確保しておきたい活動」も別にないから。
流れに沿いながら、そこに棹さす必要はない。
目が覚めていながら、不遇をかこち堂々巡りをすることは、本来起こり得ない。
そのこと一つで、簡単にメッキは剥がれてしまう。
目覚めだったのか、目が覚めた夢だったのか。
夢の方だと行いに特別感が付いて回る。
世間の大勢が目が覚めていない中で「目覚めた」のは、そんなに甘美なことなのだろうか。
世間の殆どがアクセス出来ていない存在とコンタクトを取れるのは、
世間からそうした存在だと見なされるのは、
そんなに甘美なことなのだろうか。
特別感に満ちた奇妙な動きを見た時、その心情がよく分からない。
世間の殆どがどうとかは関係なく、目が覚めたことは目が覚めたことだし、上から送って来られるものも、「只、それがそれである」だけだ。
日々楽しく面白いが、「特別であることの甘美さ」は一切無い。
特別じゃないからだ。
単にこの時代はまだ覚不覚で分けた時に、覚の方が稀かも知れないと言う、只それだけだ。
目が覚めていない状態で、全一の流れを感じるのはなかなか難しいかも知れない。
進めたいことがあるのに何故だか上手く行かないと言う方は、以下の二つをお試しになられることをお勧めする。
ひとつは、それが真に全体にとって必要であり、全母である虚空に求められているかを、ゼロの地点から問い直されること。
もう、ひとつは「それを“しないこと”が個の自分にどんな影響を及ぼすか」に、真摯に向き合われること。
すると「個の都合」が洗い出される。
「個の都合」が、「行いたいこと」と「真の自己」の間に割り込んでいると、流れは必ずそこで詰まる。
言うまでもないが、「真の自己」とは「全母としての自ら」である。
流れが枯れた訳ではない。
お気に入りのキャラクター「私」が、創造性の井戸に泣きながら座り込み、尻で蓋をしているだけだ。
そこからその「あなたと信じた者」をどければ、全体にとって必要なものは自然に溢れ流れ出す。
流れ流れて止むことはない。
それが世界の意志だからだ。
個が乗ってたら、どかしてみよう。
(2018/2/12)