《波及の理》
意識は何かと予見をしたがる、と先日申し上げた。
これは意識が元々持っている「前もって方向指示を出す」役割を、個の都合で使うことで起きる。
指示する力を、
「進んでも大丈夫か確認したい」
と安全確保の為に使うと「予見に使える何か」が物理次元上に生み出される。
これだと「立って歩くのが怖過ぎて、四つん這いになって進む」様なもので、疲れるし進みも遅くなる。
だが、赤ん坊が立って歩く前にハイハイをするのと同じで、寝ている状態に慣れきった端末にとってはまず必要な段階となる。
ハイハイチャレンジから初めて、次第に安心を助ける存在に頼らずに進める様になると、エネルギーのロスがないのでイキイキとして来る。
成すことは多いのに、
疲れが溜まらない
そしてそれに対する感想も「楽しいな」「有り難いな」程度のシンプルなものに変化し、「以前は○○だったのに今は○○で嬉しい」と言った比較も殆ど浮かんで来なくなる。
その間にもっと受け取れる歓びがあるからだ。
それに何と言うか、
今以外のポイントに意識が居れなくなる。
必要に応じて「あれは確か○年前…」と浮かんでも、今に居ながらちょっとそのページを開いてみるだけで、その地点に意識が丸ごと入り込むことがない。
不覚状態にある端末の中では、分割意識だけが盛んに過去や未来へのタイムワープを繰り返し、御神体は留守番状態になっていることが多い。
それだと、真価の発揮は夢の又夢となる。
極度の集中を経て真価の発揮を実現した存在の中には、人でなく物であっても「全一に則した具現化の流れ」が現われていることがある。
1964に誕生し、50年以上。
人々の活動速度を格段に押し上げた存在である新幹線。
彼らが凄いのはその速さが「運ぶ為」に終始しており、速さを誇る為の速さではない点。
新幹線には、「峠を攻める」と言う発想はない。
誇るでなく淡々と、休まず、日に何百回と走る。
普段着でありながら、途方もないスピードで動き続けている。
様々な名称がつく新幹線達。
その中に、名で真理を表している一団がある。
のぞみが
ひかりて
こだまする
彼らの名称は車体で分かれて居る訳ではなく、外観は大抵一緒。
だが速度は違う。
のぞみが最も速く、ひかりはそこに続く。
そしてこだまが最も遅い。
3つの名称には、
意識が受け取った全母の意志が
光の粒となって発生し
物理次元に形となって現われ出る
と言うプロセスが表れている。
上の車種はもう走っていないが一番古く、0系と呼ばれた。
彼らの出発点は0なのである。
のぞんだものをすぐ欲しがり、「いつになったら出て来るの!」と憤慨するのが人の常だが、のぞみよりこだまの方が遅いのだと分かれば、自然な流れに任せる気になる。
現象発生と言う“波及”には、必ず“理”がある。
のぞんでから待てど暮らせど、こだまが返って来ないなら、幾つか理由がある。
「のぞみ」の後に、どうせ叶わないからとか叶ったら怖いから等の「のぞまない」を発車させたか、
「のぞみ」を全一ルート以外に差し向けたからである。
そうなると当然こだま達は、運休したり脱線したり違う駅に停車したりする。
新幹線を初めて走らせた人々は、「国の威信を懸けて」や「日本を一つに」等あれこれプレッシャーも大きかったろうし、予算確保やら技術向上やら大変なことも多かったろう。
だが一方で相当に、
ノリノリだった
のではないだろうか。
どれだけ困難に見えようが、それが前人未到のNEWなのぞみであり、その実現が虚空ののぞみである時、人は苦しみよりも命の湧き返りを感じる。
そしてそののぞみは必ずひかりを波及させ、こだまとなって歓びを響かせるのである。
スムーズに送り出そう。
(2017/6/19)