《波に聞け》
「涙が止まりません」の言い回しが増えたのは平成に入ってからと感じるが、この涙、所によってはどうにも涙ではないものが混じっている様な気がしていた。
涙は、心底から溢れる思いに呼応して、切々と流れ出るものだ。
それとは違う何物かは、切々とは出てきない。
決まった反応を呼び起こすドラマティックな情報に誘導されて、決まった感情と共にだらだらと溢れ出す。
これは一体何なのか。
上から教わって、瞠目した事実がある。
あれは涙ではなく、
我の涎。
略して、我涎だそうだ。
パブロフの犬の様に、人も行動を躾けられると涎を垂らす。
それにしても、口からでなく目からも涎が出るとは恐れ入った。
そう言えば、耳で「きく」と同時にハートでも「きく」のである。
御神体の動きには、当たり前だがまだまだ計り知れない奥深さがある。
涎とは、元々は嚥下を助けるもの。
目の涎も元は、容易に飲み下せない、承服出来ないと感じる事態が起きた時に、どうにかしようとする動きであったのかも知れない。
だが、躾けられた快感に酔うのでは、進化も変容も起こり得ない。
当宮にお越しのグッドセンスな皆様は、繊細な感覚が開かれている故に、他の端末を見て「あっ、泣いている」となる時、つい同情なさることもお有りだろうが、ここは一つ落ち着いて
出ているのが涙か涎か
観察してみられることをお勧めする。
涙であれば心底から讃え、涎であれば今はまだその時期かと、天意を以て放って置こう。
涙は古くは那美多や那美太と書いた。
波・多(太)である様にも感じる。
物理次元に満たされる光の波と呼応して内なる波が起き、それが全一に帰りたがって溢れる時、涙となって現れる。
“ニシンきたかとカモメに問えば
私ゃ立つ鳥 波に聞け”
聞の中には、「問う」意味合いがある。
カモメに問うているので、ここでは聞がぴったり来る。
立つ鳥跡を濁さずと言うが、変容の時代には「目立った者勝ち」と、わざと跡を濁して去ろうとする鳥も多い。
彼らに全一の波加減を聞いても詮無いことだ。
波のことを鳥は何も知らない。
波のことは波に聞け。
全一世界の波に意識の耳を据えると、切っ掛けと言うゲートが立ち現れる。
全一に飲み込まれるのは、そして溶け合うのはそれからである。
切っ掛けは些細なこととして現れるかも知れない。
世に「トラブル」と言われるかたちで現れるかも知れない。
いずれにせよその者にとり、最適なかたちとタイミングで現れる。
未知の体験であり、エゴを安らがせる参考に出来る前例はない。
只、各々の身の内に起きる“抵抗”で、ああ、それがそれだと知れるのみである。
大工の問いに応えて現われた鬼の様な、得体の知れないその流れに飛び込む。
自ら問うて、現れた波に、飛び込んで全身でその答えを聴く。
聴いて受け取りながら、それを活かし、その上で更に聞く。
受けて活かし発する。
すると効いてくる。
3つを同時に行う間に、それらが別々ではなく一体だったことに気づく。
寄せて、現れ、そして引く。
それが波だ。
打ち寄せては引く波の動きと同じ“三位一体”を、聴いて活かして聞くことで体得すると、自身が生ける波と成る。
これから成ると言うか、元々そうであったことを思い出す。
成る程、の実感と共に。
成る程とは、正に「成る(変容する)」「程(段階)」であり、その時既に生ける水であり、生ける波と成っている。
全身全霊で波そのものとなり、全体一つで動く時、その者を邪魔出来る者は、誰も居ない。
波に聞き、波と成る。
(2017/7/3)