《沈まない船の作り方》

 

一度記事でもお知らせした様に、今春から、当宮で提示した3つのチャレンジに真摯に向き合われた方々と、一対一で非常に充実した体験を共にさせて頂いている。

内容については勿論申し上げないが、先日、その中のお一人とお話しした内容を振り返って、大変重要なことを思い出したので記事に書かせて頂くことにする。

目が覚める前、自らである“これ”について、もっと言えば“これ”「自らと信じた要素」で出来た肉襦袢を重ね、たっぷりと着膨れていた『自分』について、客観的に文章の形で記したことはなかった。

 


だから、説明係としては不十分な存在であると、申し上げたのだ。

ところが、不覚時代のことを思い起こしながら、目覚めるまで行動として何をしていたかをお話ししていたことを切っ掛けとして、「書いていた」と思い出したのだ。

不覚時代の宮司が懸命に書き留めていたものは、文章と呼べない程短い、無明の中で捕まえる断片的なメッセージだった。

感じたこと、知ったこと、気づいたこと、受け取ったこと、発見したこと、分かったこと。

たどたどしく、書きながらその意味を深く分かっていないものもあったが、とにかく書いておきたかった。


 小さなノートに何冊も、ひたすら書いた。

誰かに見せる目的でも、将来誰かに何かを発信する為の用意でもなかった為、本当に書いている自らだけが分かれば良いと、一切の作文的工夫をしていない。

毎ページ、ダイイング・メッセージ級の難解さ。
そんな印象である。

恐らく、読み返す気さえ余りなかった。

 

只、書きながらその「書いている」に在る、意識の中を整理していた。

 

 
意識の整理をしながら、見えない領域から飛来するメッセージをキャッチする。

自らの意志で始めたことのつもりだったが、これさえも上から振られた課題だった様に、今の今は感じている。

訳も分からず或る時、手の平サイズのノートを用意し、

訳も分からず、その表紙にタイトルを付け、書き始めた。

それが

『沈まない船の作り方』


題の終わり、右横にちっちゃなヨットの絵が描いてある。

思い返して、「沈みたくない!」とは不覚バリバリなタイトルの付け方だなぁと笑った。

沈む沈まぬではなく、全一の水に溶けて一体となるのだ、などとその頃の宮司には到底思い至らないだろう。

だが、

不覚からへの航海。
意識が途中で無明に沈まずに渡りきれるか。

 


と言うことであれば、味わい深いタイトルだ。

「そんな印象」とか「思い返して笑った」、と言うのは今このノートの現物を手にしてないから。

最後に見たのは数年前。どこかには有るはずだが見当も付かない。

余程必要な時が来たら、ひょいと出て来るのだろうが、取りあえずは思い出せたことで十分だ。

「作り方」なので、出来上がったら海に出るつもりだった模様。
だが、実際はこれ自体が航海記の様なものだった。


ダイイング・メッセージ的航海記。
お陰さまで幽霊船になることもなく、沈みようがない中心に帰還した。
有り難いことである。

本日記事で申し上げられるのは、「自分は文章を書くタイプではない」と思われている方も、こうした断片的なメッセージの書き取りならチャレンジし易い。そして、それは意識の整理にとても役立つ、と言うこと。

「文字で何かを残すなんて面倒くさい」「上手に書けないから」「興味なかった」

そんな方にも、内観にはちっちゃなノートと、ちっちゃな記述は存外役立つ。


 「情報を取って、残す」より、「む」ことに、その本義はある。

タイトルは付けても付けなくても、どちらでも構わない。

唯一無二の自由なフィーリングで、気軽にお始めになられてみることをお勧めする。
 

かくごとに、今刻む歓び。

(2018/5/3)