《気の出る末》
ここ数年欠かさず、年始に詣でている神社が二つあるのだが、面白いことにどちらの神籤も今年は
景気良くあったかい末吉
こう言う所を見事に揃えて来たりするので、神々のやり様には全く感心する。
意外と大吉の方が「調子に乗ると云々…」と釘刺しモードで辛口だったりするから、こちらも「どこが大吉じゃ!」となったりして神籤は面白い。
進化変容のお手伝いに関して大変お世話になっている神の所で引いた、末吉の神籤に書いてあったのが
「世の為人の為に役に立ってね。そうすると、福がもっと増えて必ず人気が出るぞ!」
と言った内容のメッセージ。
どう言うことだ。
少し離れた場所で甘酒を飲みながら、渋い顔で本殿を眺めた。
人気…いらねえ。
世の中には、人気が必要な立場とそうでない立場があり、宮司は完全に後者である。
視聴率も、view数も、星幾つかも、全く関係ない暮らしをしている。
そんな存在に、人気なんか持って来たってまるで話が噛み合ない。
見渡す限りの野っぱらに、複合施設が建つのと同様なのだ。
ピンと来ない方々は、「福引でゴルフクラブと利き酒セットが当たった小学生」や、「結婚30周年を祝って夫からトーテムポールを贈られた妻」等をご想像頂きたい。
もっと色々あっただろうに、何でこれだよ。
そんな驚きを、感じ取れるのではないだろうか。
口には出さなかったが、いらねえと意を発してふと気づいた。
ここに向かって、こんな返しをした者は初めてか。
と言うのも、この神社は商売繁盛と芸能に関する運気向上を願う人々が訪れる場所、つまり人気を大いに求められる空間なのである。
「いらない」発言に、向こうさんだって驚いたかも知れない。
神に今更「良かれ」もないし、別段こっちを困らせようとしてそんな神籤を出して来た訳でもない。
只、流れを読み取って送って来ただけのことで、いるもいらないもないなと気がついた。
全く失礼な話であり、
「ごめんね」
となった。
その様に謝意を送り、途端に分かったことがある。
宮司という“これ”が人気について、とても冷淡であったこと。
日々の暮らしに必要がない為、これまで意識に上ることがなく、気がつかなかった。
「何でだろうか」と意識を向けて、冷淡だったのは人気そのものにではなく、人気を故意に集めようとする不自然な動きに対してだったと分かった。
人の気は、出たり出なかったり、自由に発生するのが自然。
それをエゴで操って集めれば当たり前に、気の流れが歪んで空間が澱む。
歪み澱んでいるから、
伝える努力と戦略の
区別もつかない程、
鈍くなるのだ。
帰り際に、芸能の神を奉った境内社に丁度人の姿が無く、のんびりした様子であったので詣でた。
周囲の柵一つ一つに、人気を必要とする人々の名前が書かれている。
名が立ち並ぶって凄いなと感じつつ、「人気を軽んじる風潮も納めます」と、そこの神に誓って来た。
宮司と言う“これ”一つのことに、何故「風潮」と口をついて出たのか。
その場では分からなかったが、そう言えば、空間として生きていると、自らの動きを表すのに「傾向」等より、風向きや潮目を言う方がぴったり来る。
個が溶けていると、表現も多少風変わりになる。
風変わりでも誓いは誓い。
もう人気が軽んじられる理由はない。
操って集める理由がないのと、同じに。
出るも出ぬも人の自由、気の自由である。
そこに気づけて一層、天意からの愛が深まったことを感謝している。
覚めて、日々成長。
(2019/1/14)