《母に手土産》

 

ふらりと呼ばれていく気まま旅に出ていた昨年の秋、北陸のある神社を歩いていて、神籤を引いた親子の声が不意に耳に飛び込んで来た。

 

 

 

 

男の子「“お土産 親子共によし” だって!」

 

母親「お産ね。妊娠。子ども産む時の」

 

 

おみやげ。

 

子どもセンスのすごさよ。
7歳までは神とか言うが、我々の本性である神が丸出しになっている。

 

感心したところで、突然

 

土が産むと書いて、土産?

 

そんな問いが浮かんだが、神社の向かいにある美術館の催し物が目に入って、意識がクエスチョンを放ん投げてしまった。

 

その時の問いを、ひょんなことから思い出した。

改めて見つめてみると、

 

土が産むと書いて土産。

 

土地土地で産まれた独自の名物なので、と言うのは勿論分かる。
だが、それだけだろうか?

 

                    

土から迦具土神(かぐつちのかみ)を連想し調べてみて面白いことを知った。

迦具土のツチは当て字だと言う。

 

ツは現代語の「の」に当たり、「山の神」などの「」。
そしてチは、ミやヒと同じく「力(ちから)」を表す。

 

ツチ=の力

 

の力?

 

何の?

 

その時、気づいた。

 

何の力ともなれる存在。
善でもなく悪でもなく、右でも左でもなく、美でも醜でもなく、優でも劣でもない。

まっさらな全能の力。


それは我々人型生命体の本質である。

「ツチ(=の力)」とは我々のことだったのだ。

 

そのツチ()がんだものとは、子や孫ではなく我々の「体験」。

子だって孫だって実際は毎瞬、全母が空間に生んでいる。

 

我々の一挙手一投足、毎瞬が全母への土産となっている。
毎瞬我々は虚空へ里帰りしており、その度に自身の体験を土産としておふくろへ渡しているのだ。

 

たまの休みどころか毎瞬帰省していたという事実に、目が覚めてから初めて気づいた時には仰け反った。

 

だが、今しみじみと真実であることを噛み締めている。

 

かあちゃんの仕送り(エネルギー)で世に出て、様々な体験が出来た。
そうして一人前になったらお土産だって真心を込めたものになる。

 

 

親の偉大さが分かるからだ。

肉の親子なら「苦労をかけた」とか「(世間的に見て)凄い人だと分かった」とかになるが、虚空の母の偉大さは「只、その天意の深さ」においてである。

 

この天意の深さに

 

これがわたしの全母か!」と、
これがわたしという全母か!」の、

 

二重の驚きを持つ。


子の視点からは、「毎瞬持ち帰る土産が全母の歓びとなるよう、尽くして行く大人(覚者)」でありたいと思う。

 

心尽くしの土産と、帰省。

(2016/10/27)