《死角の祝福》
『全一感覚』に意識がなかなか馴染まないのは、理由がある。
好き嫌いや良い悪いで構築された限定的な視野と、そこを外れた死角が有るから。
人型生命体は鳥や魚と違って、眼球が前面に向かってだけ付いてる為、目だけで見ようとするとどうしても視野は限定的なものになる。
以前からちょいちょい「背」と言うメッセージが来ていたのだが、そこに注意を向けてみて目以外でも「見る」ことが可能であると分かった。
やり方は、
背面から後方に意識を向けるだけ。
すると、たとえ眼玉が付いてなくとも、その方向を「見る」ことが出来る。
目は前方を見て、意識で後方までカバーして全方位を知覚する。
そうすると、エネルギーがスムーズに循環する。
不覚の人型生命体は、ポジティブに向かう程、どうにも前にご執心の傾向となる。
未完成な今なんか通過点扱いで、輝かしい、若しくは今よりは良いだろう未来が大好きである。
だが行く末に対し「どうやらこの辺までしか行かなさそうだ」と当たりをつける様になると、「夢一杯の未来」が「来たるべき現実」に変わる。
あまり前に興味がなくなり、前がうんと輝いていた時期、過去と呼ばれる場所の自らが好きになる。
起こらなかったことにせよ、そこにはもしかしたらの可能性が沢山ある様に感じるからだ。
全方位で見ることは、未来と過去のどちらも覗き込まない。
前方後方を意識が行ったり来たりではなく、全てを包括して知覚する。
そこに慣れる実践は、とても大切。
とは言え、この背面から意識を向ける試みは、直ぐに体得する方と、どうにも感覚的にピンと来ない方に分かれるらしい。
やって見て、さっぱり感覚が分からなくても気にされることはない。
端末ごとに掛かっているエゴの縛りが違うので、「やってみたら出来た!」方は、そこが解けやすいポイントだったと言うこと。
本日はもう一つ、宮司も楽しんでみようとしている、季節の変わり目にも丁度合う面白い試みをご紹介する。
当宮記事で扱う色は単なる目印であり、例えばエゴや不覚の意識を表す時によく使用する緑だが、緑が悪い色な訳ではない。
これは以前の記事、差異の愛でも申し上げた通り。
だが毎週目にするうちに、いつの間にか意識の中にイメージの善し悪しが出来上がってしまう可能性もある。
便宜上、当宮でマゼンタやピンクがエゴとして使用されることはないが、それだって一つの制限なのだ。
そこで、普段エゴ役を買って出てくれている緑や、不覚行動を彩るオレンジに感謝して、この秋冬に着る服にその色を取り入れて祝福してみることにする。
オシャレどうこうより左の状況が気になる。
権威や形ばかりの精神性を表す時に力を貸してくれている紫系統や、なかなか珍しいかも知れないがもしあったら血の様な渋い赤も良いかも知れない。
それらは只の、色と言う目印。記号なのだ。
「それ」が「それ」で有るのではない。
その色がその質である訳ではない。
只々、与えられた役に徹し、演じきってくれる。有り難い限りである。
そして、「いい感じの役」と「その反対の役」を引き受けてくれたもの以外の色も祝福する。
これ何色だろう。
良くも悪くもなく、気に留めたことすらないもの。
よろしくないものと認識して、見まいと追い出したものも死角に置かれるが、気に留めたことすらないものはそれこそ意識の真反対に在る。
極北の死角と言える。
童謡の歌詞にあった「幸せなら態度で示そうよ」の言葉を思い出す。
別に皆で手を叩かなくても良いが、示すことの重要性については全くその通りで、この機会に意識が死角へ押し込みがちな祝われざる色彩に、愛と感謝を込める祝福として実践してみる。
好みと関係ない要素を身に纏うのは、表面上のこととは言え愛と感謝がなければ出来ない。
よろしければ皆様も、お試しを。
意識の念力による「全一ですね、そうですね」では100年待っても外せない制限が、死角の祝福で外れることをお感じになられると思う。
愛と感謝を示す秋。
(2017/9/14)