《歪みの昇華》
寝ぼけて放っているから当然とは言え、不覚者が使う言葉の中には時折、「本質からえらくズレているなぁ」と感じるものがある。
丁度良く分かりやすいものを見つけたので、本日記事ではこれを例として扱ってみる。
いじめ
この言葉は、事態の本質を何も捉えていないし、歪んだことで生まれた或る効果の為に「誤解混乱発生装置」のようになっている。
それは、不覚の意識に刷り込まれている「いじめられる=恥」という概念によって、
「受ける者の印象を弱体化させる」
という効果。
誤解や混乱が発生して肥大化した「いじめムーブメント」は学校を飛び出し、会社や交友関係あらゆる場所に潜って巣食うようになった。
「やめよう」「かっこ悪い」「ダメ、絶対!」等と言いながら、なぜこの騒動の歪みと「いじめ」と言う名称の歪み、2つの歪みの関連を皆が揃って無視し続けるのか、全く不思議でならないのだが、
「いじめ」ではなく正しくは
嫌がらせ
「エスカレートするいじめ」は
執拗な嫌がらせ
なのでは?
と、ずっと思っていた。
起きていることをシンプルに観た時に、この表記が最も的を射ている。
何故、嫌がらせが的を射るのか。
いじめムーブメント自体、あまり興味を感じないジャンルだが、本日記事の核心を申し上げるにあたって必要なので一応ご説明する。
不覚を生きる端末にとって「学生時代」と言うのは、その先にある「自分でおまんま稼ぐ社会人時代」への重要な布石であり、基盤となる社会的地位や人格や交友関係を構築する生命維持活動の一環。
そこが正常に機能しなくなる程侵害するのは、不覚にとっては生存の妨害であり、受けた側が待った無しかつ将来的にも不利益を被る嫌がらせとなる。
会社に入ってからも「おまんまの食い上げ」にならぬよう立ち回らなければならない立場に付け入って、そこが正常に機能しなくなる程侵害するのは、やはり生存の妨害であり、受けた側が待った無しで不利益を被る嫌がらせとなる。
何かえらい手も込んで来ているようですし。
例えば同じ会社に居る社員2人の内、『AがBに会社に居れなくなる程の執拗な嫌がらせをした』と聞けば周囲の反応は大抵
失礼だ
犯罪だ
そいつはどうやって罰せられたんだ?
主に経済的に。
となる。
ところが、『BがAに会社に居られなくなる程のいじめを受けた』となると、
あってはならない
気の毒だ
相手はどうやって罰せられたんだ?
主に精神的に。
と、不思議な変換が起こる。
中でも「気の毒だ」、要するに
かわいそう
という項目が発生する。
救世主とかだと迫害になるのに。
何故かわいそうなのか。
「いじめられる=恥。つまり惨め」という概念が下敷きになっているからだ。
「知恵や体力、強気等を“持ってない”子供だからいじめられる…かわいそう」
「いい年した大人がいじめられる…かわいそう」
この概念が弱体化を発生させる。
いじめ、という言葉そのものが既に侮辱なのである。
いじめとみじめ、音も似せてある。
支配欲から、相手を弱体化させようとする働きかけはエゴ名物なので、エゴが不覚者にこの動きを促すことについては何の不思議もない。
不思議なのは、分割意識達がエゴの小技に乗っかったまま、2017にもなって何で未だにそれを繰り返しているのかと言うことだ。
利益ばかり求めるのに、エゴに操られる不利益には気づかない振りをする。
全く呆れるばかりだが、ついでに不覚社会が無視し続けている、いじめムーブメントに関しての根本的事実をもう一つお知らせしておく。
いじめと表すと「傷ついた心」の面がピックアップされ過ぎて、相手から捧げられる代償が「改心」というフワッとしたものをメインにする為、大切な部分が結局うやむやになったままになる。
大切な部分、というのは
嫌がらせをする側にも、進化という人型生命体本来の活動を困難にする欠損があり、
むしろ彼らの方が
歪みが大きい
と言う点。
他の端末の尊厳を奪いながらでないと生命活動を持続出来ないと言うことは、中立から観れば著しく歪んでいる。
勿論、「する側・される側」はセットなのだが、その中においても
大丈夫?
と、なるのはどちらかと言えば「嫌がらせをする側」の端末に対してである。
奪ったエネルギーを引っ切りなしに詰め込み続けなくてはならない程、激しく消耗するプログラムをダウンロードされている。
まあ、それもそれで用意された「お目覚めシステム」の一環とも言えるのだが、只
おいおい、大丈夫? なことは確か。
ま、大丈夫じゃないことなど何もないんですけどね。
しれっと浸透させた歪んだ言い回しを以て、人の「かわいそう」化を生み、憐れむべき存在に押し込めるのは、大人になることへの妨害である。
妨害も本質的には妨害ではなく、変容に活かせるビッグチャンスなのだが、まんまとハマり成人化すらままならなかったら、変容と言う成神化など、夢の又夢でも仕方ない。人類の大概がそこ止まっている。
神性をひらいた一覚者という「宇宙の大人」となられる、グッドセンスな皆様に向け、言葉の本質に話を戻して、本日記事の核心を申し上げる。
大多数が当然のように使っている言葉が、
一体何をどう言っているか、
冷静に観察することはとても大切。
こんな感じの者が真剣にニャムニャム唱えている言葉が
とっぴんぱらりのぷう
であって、それを有り難がる大勢の者が揃って同じ言葉を唱えていたからと言って、
とっぴんぱらりのぷうと言えば有り難きお言葉
などと思う必要は全くない。
じゅげむで始めたって、良く良く聴いてりゃぽかほんたすとか言ってたり。
広く世に出回っている言葉が、真実を突いているかどうかは、中立感覚を磨き続けることによって、必ずご自身で感じ取ることが出来るようになる。
中立であり続けるならば、それは勝手に知れる。
歪んだ言葉を蔓延らせて意識を混乱に巻き込もうという呼び込み合戦は、2017時点で未だあちらこちらで起きている。
そこを逆手に取って、おかしな使われ方をされている言葉を発見したら
「本当は何と言うのがベストかな?」
と、皆様の上に尋ねてみられること。
上との対話の機会も増えるし、歪みも全て活用してお進み頂ければ、それは必ず変容の力となる。
歪んだ寝言は燃料。
その昇華に、皆様の中立な意識と意志の火以外に必要なものは何もない。
今そこにご自身が居られる。
それで十分なのだ。
成神は、各自のタイミングで。
(2017/1/9)