《欲しいもの》
凡神宮寺の任を通じて先日お目にかかった方に、「欲しいものってありますか?」と、お尋ねを受けた。
意識を巡らせてみたが、金銭の支払で手に入るものは浮かばなかった。
「ありますが、お金で買えないものばかりです」とお返事した。
全体の進化を買うことは出来ないし、そもそもいついつにどれだけくれと求める様なものでもない。
目覚めではないが、そこに関連する内容で、のぞみを放ってこだまを受け取ったものが、ふと浮かんだ。
知りたいことが知れた喜び。
そんな嬉しい気持ちを質問された方にお伝えしつつ、結局買える欲しいものは見つからなかった。
何も買ってないわけではなく、身につけるものから食べるものから何でも楽しく買う。
只、気が向いた時に何かノリで、あっちゅう間に買うことが多い。
知らん間にペロッと手に入る感じであり、「今日はこれを買うぞ!」とかは思い描いていない。
欲しいものがないと言うより、予期をしていないのだ、と気づいた。
愉快な気分でいる時、味わうと愉快さが増す商品に出会う。
その時、どんな気分でいるかが重要なのだと感じる。
太りたくなく幸福感でイライラを解消したい時、美味しくて太る食べ物に出会う。
甘い辛いや太るや美味いに直接の繋がりはない。
だが、一つの食べ物に「ふんわりした口当たり&爽やかな香り&甘酸っぱさ」が全部あるみたいに、「甘い&美味しい&太る食べ物」も実現する。
食べ物に限らず服でも家具でも何でも、欲しいもの全般に、「こうじゃないかな?」と意識を向けた要素が贅沢に盛られる。
それが、悩みでも苦しみでも。
買いたいと買いたくないがせめぎ合う時、買えそうで買えないものか、買えそうにないが無理をすればどうにか手に入るものに出会う。
「買いたくない」には、「欲しくても買ってはいけない」も含まれる。
当宮にお越しの皆様には今更過ぎて申し上げる必要もないかも知れないが、個人的な欲望で輝く時代はとっくに過ぎている。
それをお分かりになり、本当に「欲しいもの」に気がつく方が現れることはとても嬉しい。
凡神宮寺と違って凡神宮の活動に金銭は発生しないが、実は“報酬”を貰っている。
当宮をこしらえるよりずっと前、神社廻りをしていた頃、上に向かって
「しっかしこんだけやって本当にご褒美とかないね〜」
と、面白半分に言ったことがある。
その時、
「お前の知らない、何処かの誰かの目覚めじゃ駄目か」
と言われたのである。
実際はもう少し長いが大体こんな感じ。
目が丸くなり、そして物凄く楽しくなった。
平たく言えばツボった。
何故ならそんなこと、今まで誰にも言われたことがなかったから。
「さすが〜!おっもしろいこと言うな〜!」と感心も交えて返し、言われたことを反芻し、またウケて、段々笑いが止まらなくなった。
何と言う面白さ。勿論それで結構だ。
笑って笑って、やっと笑いが止んだ時、
それが一番欲しいものだと気づいた。
当宮の活動も全てその「欲しいもの」の実現に貢献している。
“報酬”を目の前に出して確かめることは出来ないが、確かめる必要は特にない。
信じる必要も確かめる必要もなく、只それがあると分かるからだ。