《未知の味》
今まで「これぞ自分」と思っていたものが無くなると、当然ながらそれに付随していた趣味嗜好も、あやふやになってくる。
固定観念の枠が溶け出す隙間から、自由な未知が流れ込み、その結果、「え?」と驚くような思いがけない興味が、不意に訪れることがある。
目が覚めて最初の夏、スーパーで買い物をしていた時のこと。
流すように見ていた周囲の一角で、それが視界に入った時、突然足が止まった。
意識は非常に驚いた。
それまでただの一度も食べたことが無く、おそらく興味を引いたことさえも無かったものだったからだ。
この数宇(価格)のものに細やかな喜び(美味)などないだろうと高を括っていた点もあるが、それだけではない。
不覚時代、宮司はアイスと言えばアイスクリームを主に好んで来た。
シャーベット状のものがあまり好きではなかったし大体、ソーダ自体嫌いだった。
酸味に弱かったからだ。
あと、青い時点で「無いわ~」だった。
青は食品の色ではない、という思い込みがあった。
かき氷のブルーハワイも食べたことが無い。
意識は戸惑ったが、御神体は足に根が生えたように動かない。
目も反らせない。
やっと動くことを許可されたのは、アイス売り場に向かった時である。
売り場のケースに近寄って、しみじみと見つめてみた。
目の前のこれは、ソーダではないが、多分今まで(不覚時代)は完全スルーしていた存在だ。
梨も好きではなかったからだ。
だが、好きって何だろうか。
今この時点に於いての好きであると思い込んでいても、ちゃんと見つめると、大概
いつかどこかの“快”を焼き付けたもの
に過ぎない。
そして、嫌いも同じ。
いつかどこかの“不快”を焼き付けたものにすぎない。
ガリガリ君梨味をそっと手に取り、持っていたカゴに入れた時「何かが開けた」感じがした。
実際、持ち帰って食べてみるとそれはびっくりする程、美味かった。
思った以上に本物の梨に近い味がしたが、それも不快ではなく、アイスの冷たさもあって非常に
清々した
この清々しさは
壊れていると分かってはいた制限が
実際壊れているということを確認できた喜び
であると感じた。
分かることを平面とすると
味わって腑に落とすことは立体である。
意識のドローンを飛ばして風景を見ることと、
実際に赴き、深呼吸して風の香りを吸い込むことは
全く違う様に、
御神体とともに五感でそれを体感することで、
新世界は立体化する。
アリなナシ。
(2016/7/4)