《映画式瞑想法》
瞑想は、2017ともなればもう「歩き瞑想」が主流でいい。
散歩を推奨してるのはでなく、生活の全てが瞑想になるいうこと。
意識を「目」で「冥」府のおふくろ(全母)に向け、一体化して中「心」から「相」い通じることは、物理次元で行う動きの根底を支える基本となる。
我々分神は、本来「誰でもない者」。
それぞれの分神が皆、万物を生み成す全母、虚空の“生き写し”である。
誰でもない者として過ごす時、その者は真の瞑想を行っている。
何の誰それと言う名称は、物理次元を多様性において豊かにする素敵なスパイスだが、誰でもない者である感覚を取り戻すには一旦この「何の誰それ縛り」は解かなくては進めない。
とは言え家族や恋人、仕事仲間等の主要な登場人物が持ち込むあれやこれやに巻き込まれ、なかなか誰でもない者に立ち返るのは難しいと言う方が、2017周りでは未だ多いようである。
不覚社会に未練があり、エゴと抱き合って散々泣いて、送別会を5次会までやらないと収まらないような方は、それを全うされること。
本日記事では決心はつけども、
ものっそスケジュール的にタイトな日々
を過ごされていて、集中に手こずっておられる方々にお勧めな試みをご紹介する。
この物理次元は虚空の観ている映画である
と言うのは既に皆様ご存知であられると思う。
その事実を活用し、逆から近づいて行く試みになる。
誰でもない者として過ごす時、唐突にその静寂を打ち破って「おかあさん!」や「○○!」と呼びかけて来る周囲の人々が居る。
彼らにしてみれば、誰でもない者として過ごそうとしている人が、誰でもない者だなんてとても思えないし理解できないし認められない。
その思いは、見えざる領域で結構な抵抗となって双方に影響する。
周囲に影響を及ぼすことに遠慮を感じ、誰でもない者であることに躊躇いを持つと、そこに壁が出来る。
と言うことで、まずは「何の誰それさん」であるあなたを主人公とする『人生』と名のつく映画上に「誰でもない者」を演じるシーンを挟む、という所から始めて頂きたい。
例えばそれは、こんな風に始まる。
ふと、集中できそうな静かなひと時が訪れた。
もしくは、少なくともそう頻繁には誰かに話しかけられなさそうなひと時。
あなたは役者である。
意識を集中する。
『アクション!』
誰でもないあなたが、この「何の誰それ」と名のつく、言わば“座席”に納まって、あたりを見渡す。
何という静寂。何という充足。
時や動きと共に、景色が流れて行く。
「観る」が起きている。
そっと手近にあるものに触れてみる。
感触を確かめる。
触れているのに、別々と言う意味では存在は離れている。
それぞれにそれぞれの感触と重さがある。
空間が切り開かれることで、感触がある、重さがあると、その様に感じられている。
不思議に感じる。
「おかあさ〜ん」
『カット!!!』
そう、こんな感じでどっかしらから呼びかけが入ったら即「シーンいくついくつ、誰でもない者」をやめて結構。
この調子で、映画のワンシーンを撮る様に、誰でもない者としての体験を差し挟んで頂く。
数分でも、数秒でもまずは体験し、味わってみることが肝要である。
次第次第に慣れ、体験が増え、長くなって来たある日、本編と劇中劇とが「逆転する」。
「何の誰それものがたり」こそ、「大いなる誰でもないものがたり」中のプログラムであり、虚空の道化である我々分神が演じていた作品だったことが分かる。
松田優作は演じる役に没頭するあまり、「その人物」が抜けないまま実生活に“連れ帰る”こともあったと聞く。
又、渥美清は車寅次郎の役を引き受けて以降、「寅さんのイメージを壊すことになるから」と、他の役を断り続けていたそうである。
役者としてそれはそれで1つの生き様であるが、現在の物理次元は、これが虚空のスカパーであったことを忘れて役に殉じるという時代はとうに過ぎている。
それはあくまでプロローグ。
本編はこれからなのだ。
「大いなる誰でもないものがたり」の劇中劇と承知であるなら、「何の誰それ」を放浪記もびっくりのロングランでお続けになっても、勿論結構。
『何の誰それ・1000周年』と言うイベントでもあったら、是非ご一報頂きたい。お花を出そう。
役≠自ら
この真実さえ思い出して頂ければ、何をどう味わわれても素晴らしい「体験」と言う果実になるのだ。
名優こそ空っぽ。
(2017/4/13)