《“新体験”で進化する》
本来は全ての体験が新体験だが、同じ人同じ場所同じ物…に見える状況が続くと、変容途中でまだ粗い波動との紐付けが残っている意識は、次第にその「同じっぽい状況」に飽きてくることがある。
刺激を求めてスイーツ、ギャンブル、アルコールや、ゲームを始めとする2〜2.5次元のあれやこれや等に巣食う「約束された快感」の中に逃げ込んでも、こと変容に関してはそこは横道だし袋小路だ。
蟻塚と呼んでもいい。
蟻しかいないから。
横道に入らずに、日々に全く馴染みのない要素を分かり易い“新体験”として挟み込むと、それがフイゴの一吹きのように新しい空気を生活に送り込む。
季節外れの話になるが、新潟のある地域に無病息災や子孫繁栄などの招福を願って、新婚の婿を雪中に放り投げる「婿投げ」という伝統行事がある。
偶然テレビでそれを観て、面白い行事だと眺めていてふと、思い至ったことがある。
祈り願う気は満々、ただ、そこで止まるのが人間意識だということ。
「婿100人に聞きました。その後お幸せ?」
などという調査は行われない。
幸福を持ってる持ってないって世人は騒ぐが、「ある時点で持ったものが、そこからどの位“持ち続け”られたか」という調査は行われない。
人の感覚は変化しているように見えて、同じ所をぐるぐると回っているだけなのだ。
変容の時代では、意識を中心に保ったまま、世界を空間であれ時間であれ俯瞰で観ることが必要になる。
“自分”とされる個々の端末も含めた全体を見る=観る事が出来ると、持ってる持ってないにはきりがないし意味もないことが分かる。
きりもないし意味もないことを知識として知っただけで、感覚では幸福しか捉えていないままであれば、「きりがないし意味もない…虚しい」となり、盛者必衰の理を掲げた、悟った風虚しさパークで遊ぶ事になる。
だが、幸福とは全く異なる至福というものがあり、本来立ち返るのはこの境地だったと思い出す道の途中にあるなら、幸福が没シュートでも「何だスッキリ」となって、持ってる持ってないに振り回されずに、イキイキする余裕が出て来る。
繰り返しているのは世界でも時代でもなく、プログラムだ。
そこを出て中心と俯瞰のバランスを取るには、まずは今に飽きないことである。
人間意識は投げた婿を観察しないが、婿投げそのものには全一に則した意味がある。
誰も踏んでいない真っ白な雪の上に投げられる、そしてそれが人生初という二重にフレッシュな行いを落下の衝撃と共に体験した婿は、忘我の境地を垣間見るというシステム。
平常運転でガッチリとエゴ乗っけのままの婿より、一瞬でも忘我を体験し、乗っかったアタマのエゴがチョイ浮きした婿の方が、全体に則した動きをするのだ。
効果はエゴ帽のガッチリ加減にもよるが、「浮けるもんなら浮いときなよ!」という天の采配の優しさを感じる。
実際この婿投げは招福祈願でもあるが、通過儀礼の意味が大きい行事であるらしい。最初は自分の村の女をよその村の男に持ってかれる腹いせで投げたというから、何が役立つかわからないものである。
雪中に投げられる機会が無くても、静かな気持ちで問いかけてしばらくそっとしておくと、一番ぴったりした“新体験”を、「ふと思いつく」というかたちで御神体が示してくれる。
宮司はふと思いつくことに基本“全乗っかり”して過ごしている。先日もその「ふと」でスポーツ吹き矢にチャレンジして来た。
礼に始まり礼に終わるお作法と、誰も吹いてない真新しい的に自分の矢が刺さると言う新鮮さ、そして息を吹く瞬間の意識が澄む感覚が、婿投げに通じる。
吹く時に集中が乱れると分かり易く狙いも外れる。というか狙うより、ただ素直に吹いた方がいい感じに刺さる。息を吹く力にも長さにも勘所のようなものがあり、大変面白かった。
空間を切り裂いて進む矢も自らだし、切り裂かれる空間も自ら、吹く為の筒も、息を吹いている“これ”も自らである。
光景の中で空間が裂かれる瞬間、形容し難いが何と言うか、
とても愉快な気持ちになった。
吹いてみるものである。
婿(意識)を忘我に落としてみよう。
(2016/5/9)