《教育か調教か》

 

12日に催された会で、主催者の方が『死の瞬間には獣でも一瞬は悟るが、また次の体に入ってしまい繰り返す』というお話をされた。

 

全くその通りで究極の緊張弛緩(しかん)がそこにある。

 

生は緊張、死は弛緩
この歪んだ認識で輪廻が繰り返される。

 

それ自体緊張そのものである歪んだ生の中に、究極の緊張&弛緩のミニチュア版のようなセットが、ちっちゃなONOFFとして組み込まれている。

 

学校で、テストの為に我慢して我慢して勉強して、終わったらダラ〜っとする。

ゲーム。漫画。スポーツ。買い物。デート。友達と遊ぶ。何でも出来る自由な時間があらわれる。

 

 

この時の「解放された〜!」という思いは、次のテストというハードルが登場した時に「でも、終わったら自由だ!」という支えになる。

 

この繰り返しで(しつ)けられた思考回路が、会社に入っても同じ動きを繰り返す。

 

成績の為に我慢して我慢して仕事して、終わったらダラ〜っとする。

 

「そんなことはない、成績だけの為に働いていない」という方も、以下の式を眺めてみていただきたい。

 

 仕事
−成績
−報酬
−賞賛
−評判
−保身

 

=さて、幾ら残る?

 

何一つ残らなかった方が、欲深い訳でも罪深い訳でもない。


物心ついた時から、「我慢の緊張ご褒美の弛緩」という2つの温度を持つ状況に交互に漬けられてきたので、それに従って反応するクセが染みついているだけだ。

 

「それをすること自体を喜びとする」

 

そんなごく真っ当な動きが出来なくなるのは、『勉強』という共通の対象に

 

『&義務。でもって、つまらないもの』

 

という認識をセットで付けて提供する時に始まる。

 

勉強する内容自体が、わりかし好きな端末が居ても全く不思議ではない。

 

なのに、『基本、面白くないよね』とか『これ本当に必要?』などの、「取りあえず噛みついときゃ(さま)になるだろ」的な雑な反感を招いたりするのは、それも「そうするように調教されているからだ。

 

ただただ真摯に「勉強と言うこれは本当に必要か」と問う者は、世間でなく自らに問う
そして必ず「その者にとって本当に必要なもの」に出会うし、勉強も勉強が好きな者のこともとやかく言わない。

コンプレックスがないから。

 

一度はっきりさせておく必要があることを本日申し上げる。

 

教育調教

 

勿論理由はあるが、2016時点で、世人が「教育」と認識しているものの殆ど全てが「調教」である。

 

「教育者」「教師」と自ら名乗る者が居るが、彼らのほぼほぼ全員が「教員」であり、知識の伝達者以上の仕事をしていない。
それすらしていない連中もわんさか居るかも知れない。

 

“恩師”と呼ばれ、立派な教育者然としている教員も、人間を超える教育はまるで出来ていない。

 

以前読んだ本に、他はさっぱりだったが唯一納得したフレーズがあった。

 

“計画して失敗したなら、それは失敗を計画していたのだ”

 

確かこんな感じだった。正にその通りで、「そんなつもりじゃなかったし」とか「私なりに真剣でした」とか、そうした言葉は意味をなさない。

学校を出てからの社員教育の場でも全く同じ。

 

“教えて育っていないなら、それは教育ではなかったのだ”

こんな変換が出来るだろうか。

 

知識が支配者層の専有物から意欲ある万人の物へと大きく変わったのは結構だが、人間意識の範疇で求められるような教育者の模範となる端末はその変革期で既に出尽くしている。以降、教え手の質はずっとジリ貧。

 

「調教だってこの世間で生き抜く為には必要でしょ」というご意見が、当宮境内で発生することはまずないだろうが、一応申し上げておくと、緊張と弛緩のセットは、それ以外のものに対する感覚をことごとく鈍くし、眠らせる。

 

先ほど申し上げたそれをすること自体を喜びとする感覚は、決まったルートに依らない自由なやわらかさを備える


「これは喜び」「これは苦しみ」「これは名誉」「これは不名誉」といったお約束が存在しない。

逆に、緊張と弛緩はお約束そのものである。

 

 

決まったゲートに入れ、決まったコースを走らせ、なるべく速く走らせ、走れなくなったら処分し、成績が良いまま引退出来たら次の種を採取する。

 

それは調教の領分だ。教育ではない。

 

生徒や部下として教わる側にある方達は、調教師にお腹立ちになることもあるだろうが、その調教師を教えた「教師」もまた、調教師であったことを踏まえ、あなたに「教師(づら)」する面々(めんめん)からこの寝言問答をスタートさせた訳ではないことをご理解頂きたい。

 

人が「教える・教わる」ことで何らかの「利益」を得ようとした時からこの風習は始まっているし、教える側に前の肉体を以て「いつかのあなた」も参加しておられる。

 

学生や社員と言うプレイヤーにとっても『勉強つまんない』『仕事つらい』と言うことの旨味はある。

 

社交術として。

共通敵がいればそこに牙をむくことで、「友達」「仲間」と肩を組める。手も組める。
そうすると少し、安心出来る。気がする。

 

実際この安心も調教組合からの煽動で囲い込まれて作られているが、グ〜ラグラな意識のままこの安心すらなかったら学校も会社も「ずっと、ひとり大地震」状態だろう。時に「感覚がマトモ過ぎて学校や会社に足が向かない」状態も、十分に有り得ることだ。

 

ただ、敢えてその「クレイジーな世間」に降り立って観察してみることに2016周辺の醍醐味があるのもまた事実。

 

どういう形をとっていても、一つの例外もなく、生活の全てが「既に神なるあなた」「未だ人なるあなた」へ放った球だ。
見逃し三振で、いい気分になる打者は居ない。

 

外野がどうでも、塁に出る。

(2016/11/21)