《我田引水》
皆様ご承知の通り、不覚社会の水回りがとんと怪しくなっている。
今まで程良く口に運ばれて来たのが、急に椀から頭にかけられる騒ぎに。
自然が牙を剥き始めたとか、そんな意地悪モードで出て来た画面ではなく、中心に在ることの大切さが浮き彫りとなった動き。
そしてもう一つ、“大切なこと”を教えてくれている。
外に起きることは、
まず内に起きている。
不覚社会に生きる人々の持つ「我が身、我が家、我が一族、我が社、我が地元、我が国だけに繁栄を」と言う内なる我田引水の思いが、お望み通り特定の時期と場所と言う「部分に水を集める状況」となって現われている。
特に大きく雨が降った地域が悪かった訳では勿論なく、全体の一部分という役割を今回買って出た。
それでも何故あれらの場所だったかを敢えて言うなら、固定観念がとりわけ沢山保存されていたから。
時にそれは「ふるさと」とか、不覚の目に美しく映るものだったりする。
線状降水帯も含める雲龍の活動は、本来、龍の力は分離したままの不覚社会には役立たないことと、そこを人の都合で縛って雨乞いや雨避け等に奮って来た神通力を、今後不覚者が扱うことは出来ないと言うお知らせとなる。
ついでに言えば一端末に代表する形で放たせた「神も仏もいないのか」と言う発言で、「既に貸し借りなし」の証言を一部の神仏が人間から取った。
変容に本気な進化する神仏を、「信じているから置いてかないで」と縛ることが、これでもう出来なくなった。
「たまに持ち上げても無理よ。」
進化の流れは着々と進行し、止まらない。
男の字は、田の下に力を置く。
本来なら、「全ての田に水を注ぐ意で動く」のが男の見せ所なのだが、男性性を担当する不覚状態の分割意識は無論そんなこと分かっちゃいない。
口開きゃあ「我が田、我が田」の“「おらが」くん”揃いなのだ。
「おらが」くんとはこの絵本に出て来る、記号みたいなデザインの男子である。
「おらが」さんと言ったら良いのか、女子も居る。
彼達がするおかしな振る舞いは、現代の不覚行動を極端にして分かりやすく表している。
この本は「正しさで秩序が保たれる」と信じられていた時代の道徳絵本で、古い観念も満載だが変に親切ぶらず、出て来る“「おらが」くん”達への容赦なさがきっぱりしていて面白い。ヘボい絵も面白い。
おらが行動は叱られて慎むものではなく、自ら気づいて止めるものだ。
だから全母も上も只、見つめている。
おらが行動が止まる時、それは「あれ、おらがおらがで来たけど、おらって本当に居るのかな?」と、ふと気づき、内省を始める時。
そこで初めて、真の大人になる一歩を踏み出す。
はっきり申し上げておく。
「我が子」も我であり、
「我が孫」も我である。
まるで我がことではない様に扱って居ても、子々孫々って「誰の」ものだろうか。
「血を分けた可愛い我が子」って「誰の」血で、「誰の」子だろうか。
“誰でもないもの”しか居ない世界で、「誰か」がそこに居るとでも?
不覚者は「責任」を持ち出して正当化しようとするが、意識を寄り添わせて癒着させるのが責任を持つことではない。
そして、真に責任を持つ場は本来、「各々の意識が入っている御神体に対して」に限られる。
肉の親兄弟、子や孫、連れ合い、恋人、仲間等の、大事な大事な気になる一部分と、その他大勢との意識の境界を解かない限り、絶対に完全覚醒などない。
「何かが起きた」としても単に一時、視界がスッキリした感覚を味わっただけである。
その感覚だけを後生大事に意識が焼き直して「それっぽく振る舞い続ける」時、勲章化した目覚め体験と抱き合って共に古びていく。
エゴを満たす「我が○○」と信じた部分に向けてのみ、エネルギーを流す溝を掘る時、エゴは増長し、御神体は苦しむ。
これが疲れや不調となって蓄積する。
逆に、全体の繁栄を意志して、その意志に嘘をつかずに行動する時、エゴは弱り、御神体は活きて来る。
余りに我田引水にハマっている状態だと、エゴに引っ張られた分割意識の苦しみを分け合って、御神体も一時苦しむことがある。
だが、これには限りがあり、意識が成長すると共に苦しみは無くなる。
エゴに付き合うか、御神体と歩むか。
こうはっきり書くと、答えは明らかではないだろうか。
どちらが本道かは明らか。
だが我が田への溝掘りで、人生終えることも出来る。
どちらでも自由に決められるのが、この素晴らしき“みんなの世界”なのだ。
水引かず、意識の独立独歩。
(2017/8/31)