《愛の宿(やど)り》

 

宿題、と聞くとまず「嫌なもの」と連想される方が多いのではないだろうか。

 

 

だが分神と言う、分割意識御神体のカップルには、全母の元から物理次元に持って出た、共に解く為の宿題がある。

 

代表的なものが「父方」「母方」、それぞれの遺伝や記憶のデータから受け継いだお題。

 

体力や持病などの体質。

知能や才能などの資質。

習慣・バイオリズムと、そこから形成される性格。

 

あっちこっちから引っ張って()り合わせているので歪んでるし、年期も入っていて結構な影響力を持つ。

 

これを縦軸とすると横軸にあたるのが、魂にINして持ち越して来た「前の自分」に割り振られたお題。


 心残りと苦手意識と言う点では、血の系譜とどっこいどっこいの粘着データである。

 

これらに加えて、今世で交流してきた他の端末からコピーしたり、時代ごとにデータ配信されたものを受け取ったりして、宿題は複雑化している。

 

それは時に、とても大きな障壁の様に立ちはだかり、


それは時に、今までの労苦を水の泡にするかの様に成果を粉砕し、


それは時に、望む場所へ一歩踏み出そうとするあなたの足に絡み付いて邪魔をする

 

かの様に、思える。

 

分割意識達がそれぞれの御神体を(うと)ましく扱う背景には、この宿題を忌避(きひ)する思いがある。

 

意識だけが自由に飛び回る脳内王国では、宿題のことは一旦「置い・とい・て~」が出来るからだ。

 


そんな楽ちんなアタマネバーランドで遊んでいると宿題絡みの、日常で遭遇する「引っかかり」や「重し」のような面倒くさいものには、出来る限り近づきたくなくなって来る。

 

御神体の方はそうした小休止が出来ない。


常に休みなく、宿題のノートや教科書をまとめて担いでいるのは奥さんの方なのだ。


 妻は持つ係、そして夫は答えを記入する係。

 

妻に解く知能がないのではない。
実際、カミさんは夫がひとたび本気で問えば、答えのヒントを提示してくれたり、気づきに向かってまさに体を張って突き進んでくれる

 

亭主に与えられている役割は、夫婦の総意を明らかにして、「ファイナルアンサー!」と宣言すること。

 

全ての宿題は「それも愛だったと認め、昇華し、祝う」が解答となる。

 

「そんな記入はしたくない、出来ない」となればいつまでたっても白紙のまま。

 

亭主に答えを書く覚悟が出来るまで、カミさんは日々の生活を甲斐甲斐しく支えながら、只、愛を送っている

そんな妻を、ともすればめんどっちい宿題と一緒くたに扱って「お前さえもっと良い存在であれば」と文句をつけるのは八つ当たり以外の何ものでもない

 

もっと頭が良かったら、
もっとスマートだったら、
もっと健康だったら、
もっと好みの顔だったら、
もっと気が利いたら、
もっと我慢強かったら、
もっと若かったら、
もっと意志が強かったら

 

もっと良い人生だったのに?


宿題は、全母が見つくろって個々に与えた訳ではない。


したがって、「貧乏くじ」は存在しない。

 

そもそも全母と我々は同質のもの。
我々は各々自ら混乱の断片を、「解いて見せよう」とそれぞれで引き受けたのだ。


誰も無理強いしていないし、押し付けてもいない。

 

苦しいのは理不尽だからではなく、過剰だからである。
それぞれが、解けなかったものを未消化のまま今日まで持ち越して来て既に一杯一杯。
キャリーオーバーが過ぎる。

 

宿題を労苦とエゴが定める前。
それは成長の種、愛の宿りだった。

 

今だって、本質は何も変わらない。

 

宿題を愛の宿りに戻すことから、解答と言う歓びの旅が始まる。

 

解くことは、いつからでもどこからでも始めて構わない。

 

ギフトされたクエスチョンに向けて、「何でも来い!」と解く姿勢をとることで、解答はどんどん為されて行く。

 

 

肉の夫婦から子供が誕生した折に、それを「愛の結晶」と表現することがある。

 

晶の字は日が3つ。
この日は太陽ではなく、を表す。
そして3は「単なる3つ」ではなく「数えられない程の複数=無数」を表す。

 

無数の星の輝きが結ばれたもの結晶なのだ。

 

これは人間の子供に限ったことではない。

 

分神という夫婦そのものが全母の愛の結晶であり、分神夫婦が育む生活、その瞬間瞬間もまた愛の結晶であり、愛の宿りである。

 

あなたがその部屋のドアを開ける時、
靴を履く時、
ボタンをかける時、
車のキーを探す時、
自販機のペットボトルを取り出す時、
空をゆく飛行機に気がついて見上げる時、
静かな店を出た途端に表の喧噪にびっくりする時、

 

駅のホームで、人を避けながら歩いたかたちが、偶然にダンスステップの様になった時、

 

それに気づいて何だか可笑(おか)しくなってふと上を見ると、通る人々が気がつかない高い場所にともる照明が、ウインクするようにチカチカした時、

 

つまりありとある瞬間瞬間が

 

愛の宿りなのだ。

 

 

愛の宿らぬ瞬間は
本来、ない。

 

不覚の状態から取り組む愛の宿題は、基本問題。
目が覚めると更に面白く嬉し楽しい、「愛を天意の元で活かす」と言う、応用問題が展開する。

 

退屈することはないので安心して、まずはお手元に振る舞われている宿題を愛の宿りとして味わい、昇華なさること

 

何かの為のそれではなく、
それ本来が、

それそのものが、

 

 

愛であり、
歓びである。

 

あなたの元のそれを解くのは、
あなたをおいて他にはない。

 

宿題を愛してみよう。

(2017/2/20)