《愛と経済》
イキイキ≠ムラムラに関連して気がついたが、そう言えば2018周辺で、「不倫」と呼ばれているものは、もうちょっと遡ると「不義」と呼ばれる。
不義密通、と言うやつで実際の所、夫だけ好き放題で、基本妻とその相手に激厳しい感じだった模様。
しかし建前は、「許すまじ不義密通」である。
本義としてNOなものが倫理としてNOなものに変わるにつれ
から、
「いかがなものか…ムフフ」
位に、ノリも変わって来た。
不義時代もムフフ感はあったかも知れないが、「パパ活」のライトさには比ぶべくもない。
「こう言う、緩くなったことに決して感謝はしないのが不覚あるあるだよなぁ」と、気づいた。
緩んでもそれを自由とは呼ばない。
只、揺んだだけ甘えるのが不覚の動きだ。
だから全然昇華せずに堂々巡りし、澱んで行く。
以前にも申し上げたことだが、再度書く。
ずっと不思議に感じていたことがある。
愛の名の下に、人が人を詰ったり責めたり出来るのは何故だろうか。
愛の名の下に、人が人との誓いを破ったりそれを隠蔽したり出来るのは何故だろうか。
一体、彼らは何を
愛と勝手に呼んでいるのか。
一時は結構真剣に意識を巡らし、様々な角度から観察を試みたものである。
お陰である時「!」となる瞬間を迎えた。
不覚者が「愛」のタグを付けている関係は、実際は
経済による関係にとても近しい。
「浮気・不倫」と呼ばれる事態について解説すると、要は、
恋慕の情によって「独占契約」を結んだはずの取引先が、
気づけば当社が競合する他社と水面下で接触し、
「より良い条件を提示され秘密裏に取引を行っていた」
と言うことである。
これは恋愛業務や結婚業務の存続に影響を与え、「子」である所の子会社が存在するなら当然そちらにも波が及ぶ。
こうしたドンパチは倫理としてNOだから起きるのではなく、内側に愛が無いのに愛を騙ったことから発生する。
不覚で言うところの「レンアイ」ではなく、真の愛による動きであるなら、そこに大きな破綻は起きようがないのだ。
訳の分からない説明もつかない愛が何でかそこにあると、よしんばパッと見は浮気的な状況でも
「しょうがないわねぇ〜」
どっこにでも飛んでくんだから全く。
と、「どっとはらい」みたいな、どこか牧歌的な収まり方を見せる。
昭和的に表すなら“火野正平現象”とでも呼べるこれは、2018の不覚社会では中々お目にかかれない。
誰も彼もが個を優先させて、ガツガツと首狩り族の様に獲物を集める動きばかりが目立っており、そこに愛は面影すらも消え失せているからである。
妙に憎めない。
(2018/8/16)