《愛される?》
「う~ん今更、何でだろなぁ」
この冬、幾度も上から例を提示されてその度に首を捻っていたのが、2018になっても止まない
不覚者の愛されたさの半端なさ
皆、尋常でなく愛されたがっている。
寂しいから
苦しいから
悲しいから
好きだから
不安だから
憂鬱だから
快感だから
訳も分からず
そうした思い思いの理由をつけて、感情の揺らぎと共に振りかざし、そのことをさも当然だとしている。
だが当然どころか、「愛され・たい」ことは不自然な動きだ。
愛とは自然の流れに基づくものであり、空から風に舞って、地に種が降り、水が潤し、日が暖め、芽生え、花咲く様な動き。
全体の流れを無視して「我の為に、この場所にだけ、この色とこの色で、出来るだけ沢山の、花よ咲け」と言う、念力は愛ではない。
実際の所、不覚の者達は
愛させたい
と、喚いているのだ。
「愛される」とたった一文字しか違わない「愛させる」。
お分かりの様に、その中身は大違い。
「愛させる」は極めて恣意的であり、その為に極めて戦略的になる。
各自の戦略が行き交い、大変入り組んでいる「愛させ騒動」は、終わり行く不覚時代の遺物と言える。
供給されるエネルギーが減り続けているのに燃費は高い大掛かりな装置。
新世界のエネルギーは大変きめ細かく精妙であり、「愛させ騒動」には全く役立たない。
目が覚めていなくとも薄らと感じ取れるエネルギーの減少は、焦りや不安を呼び、不覚者の更なる愛させたさを煽る。
煽られて強まった愛させたさに縋るか、愛させたさそのものを手放すか、二つに一つを割と前から提示されているのだが、不覚社会は未だ見ない振りをしている。
「最初から天意されてるし、愛してるし、
そもそも天意がなきゃ発生出来てないし、
愛でなきゃ存在出来てないし」
と言う事実と一体になっていると、愛される為の理由は要らないし、全く嘆きようもない。
愛され「てる・てない」問題から完全に解放されて過ごせば過ごす程、不覚の喧噪は珍妙な響きを伴って来る。
大勢が悶え苦しみながら
「我々は息がしたい!」
と叫んでいるのを見ているみたいである。
「え?何だって?
じゃ、今どうやって生きてるつもりなのさ?」
と、驚く。
「どの辺りまで、呼吸出来ていない振りを続けるのだろう?それとも息が出来ていないと言う自己暗示で、窒息するのだろうか」
と腕組みして眺めている次第である。
この件に関しては、結構厳しい実例も上から提示されているが、詳しくは述べずにおく。
只、当宮にお越しのグッドセンスな皆様に申し上げておけることは、
これから更に、「愛させ騒動」に必要なエネルギーの当事者負担は増し続ける。
それも割とえげつないペースで。
つまり、
人たらしも命がけ
と、言うこと。
ここでの“命”は、あくまで不覚が言うところの命であり、言い換えるなら「個別のデザイン」。パーソナル・コードとも言える。
既にお知らせした、印象操作をやめることの重要性が、感覚が開かれた端末程、身に染みて分かる様になる。
誰でもないのに、愛させられます?
(2018/3/5)