《意味深の浅瀬》
「意味深な発言」「意味深な行動」等、“意味が深い”とされる動きがある。
その発言や行動の裏に、別の意図やメッセージが隠れているかららしい。
二重構造程度で、
どこが深いのだろうか。
隠されたものにしたって「個の思惑」によって発生し、エゴの領域を出ていないので、そこに大した深みはない。
エゴそのものが意識の浅瀬にしかない。
だから兎に角、より個性的であろうとするし、より派手であろうとする。
深さがない分、広がりたがるのだ。
意識が深く、より深く、どんどん奥へ深化(進化・神化)して行くと、
思考の喧噪は消え、
感情の騒乱も消え、
他との比較自慢合戦も消え、
勲章も消え、汚名も消え、
欺瞞も消え、自我も消える。
我と信じたものが消える。
個とは、全一の中で部分を認識せよと割り振られた目印。
目が覚めても個としての認識は有り続けるが、意識の執務室の中で、「自分さん」はフォトフレームに収まって一応飾られている程度の存在。
「不覚の自分さん」もアルバムの中には居る。
このアルバムは必要がない限り開かないし、見た所で感想は
「一生懸命生きてて、
それもそれで全然アリだったって知ってるけど、
只、今一緒に飲みに行く気はしない」
そんなものである。
かつての自分だろうが退屈なものは退屈であり、新しい話が出て来ない存在に興味は湧かない。
“自分さん達”にだってこの調子で、勿論ありとあらゆる“他”とされる端末にもそれは変わらない。
真に新しいものは、これ以上行けない程に極まった、奥底からやって来る。
それは全然押し付けがましくないし、
戦略的な匂いもしないし、
洒落めかしたり勿体ぶったりもしない。
只、さり気なく、素直で、ビックリする程深くて新しい。
思い返せば上からの情報も、
息を飲む程容赦なく、間髪入れず、目も眩む様な厳しさで放たれることは有るが、只の一度も、
勿体つけられたことはない。
そー言やそーだが、そりゃそーか。
この気づきから申し上げられることがある。
何者であれ皆様の前に現われ、意味深長に、さも重大さを持つ様に言って来る時に、
勿体つけていたら
大したことはない。
必要なのは「伝わること」であり、「どんな風に伝わるか」では全くないのだ。
適切な場所や適切なタイミングで情報を提供する必要があって黙るのと違い、 “どんな風”が必要なのは話者ばかりであり、それも不覚の話者でしかない。
見分け方は簡単。勿体つけはそれをした後、必ず相手の様子を窺う。
彼や彼女がチラとでも勿体をつけたら、情報を受け取るより、「実のない話をさえずる哀れさ」を観察する方に、意識の注意を向けて頂ければと思う。
浅瀬でチャプチャプ、埒もなし。
(2018/8/27)