《引き受ける波》
「何かもう、すっかり作文おじさんじゃないか」
先日、思わず上に向けて放った一言である。
当宮の記事を含めて、宮司を名乗る“これ”があれやこれやの文を作成する用件が、このところ増える一方だからだ。
文を書くことについて以前は、主に「入力」と呼んでいた。
実際やったことはないのだがどこかで聞き齧った
『簡単な、データ入力のお仕事です』
と言う文言が浮かび、“これ”がしているのも、多分そんな感じのことなんだろうなと思い、そう呼んでいた。
だが、上から「入力」されたデータをこっちが文字として「出力」しているとも取れるし、そうなるともう出てるんだか入ってるんだか良く分からない。
なので最近は大概、「作文」と呼びならわしている。
小学生の皆様がトライされるものとそう変わらない。
小学生の方々は「先生」から、宮司は「上」からテーマを受け取る。
毎回、フレッシュな気分で向き合え、間違いなく面白いしビックリ出来るので、比べたことがないので何とも言えないが、もしかしたら学校の作文より愉快なのかも知れない。
兎も角、出来ることはしようと集中して向き合っている。
不覚時代には望んでもいなければ、興味を持ったことさえなかった作文に、真剣に取り組んでいる。
作文そのものが必要なことも分かるし、もう一つ。
当人が選んじゃいないものを引き受けることで、変わるものがあると知っているから。
宮司と言う“これ”が引き受けて成したことが、それを知りもしないどこかに波及し、別の者の“引き受け”を呼び起こす。
「意識が寝てた時は、こんなこと望みゃしなかったな」
と、呆れながら意外なことに邁進する端末が、この空の下、知りもしない場所に居る。
料理だろうか。
スポーツだろうか。
何かの学問だろうか。
全く見当もつかないが、その意外な活動を思うと、とても楽しいし、頼もしい。
同時に、かつて別の端末が引き受けたことが、宮司を名乗る“これ”の引き受けを呼び起こしたのだと気づいてもいる。
そうした流れの“先”に居る者、“後”に居る者に、直接会うことはない。
だがどちらに向けても、しみじみと感謝が湧く。
目が覚めて、弥栄のみを意志していると、ある時不意に為すことが持ち込まれる。
その際は「来た来た、引き受けの波来た!」と、勢い良く乗ってみられることをお勧めする。
波に乗ると見えるもの。
(2018/2/5)