《幸せスタンプラリー》
聞き慣れない、間抜けな響きのような表題だが、不覚者全員が産まれてこのかたずっと参加しているゲーム。
信号が青だった
第一志望校ののA判定貰った
企画が通った
予期せぬ臨時収入
電車に間に合った
同期から頭1つ抜けた
役所に行って待たされなかった
プレミアチケット取れた
他社との競合に勝った
Youtubeの再生回数伸びた
経営する会社が上場した
2キロ痩せた
欲しかったガチャこれで揃った
本来幸せに大小などないのでごたまぜで書いてみたが、ありとあらゆる「よかった」裁定で、このスタンプは押されたり押されなかったり。
これに加えて、『良い人生として必要スタンプラリー』も各自の基準で行われる。
学歴
職業
結婚相手
住む地域と家
子供
子供の進学先
子供の就職先
etc。
これらが満たされるごとに済印が押される。
『自己像実現スタンプラリー』もある。
これには変動する美学に沿って逐一、合格不合格という裁定が為される。
変動するので結局まとまりがなく、グニャグニャしている。
我、という私的見地を越えた世間全体として『いかがかどうか』という、ラリーにもなっていないスタンプ習慣もある。
あれはこれはそれはどれは
可否可否可否可否可否可否
やかましいやぃ!
やかましいし、きりがない。
そして何より全てのスタンプに有効期限が存在する。
有効期限:人間で居る間
全一に溶けてからは、自らが得られたもの得られなかったものが、その優劣ををまとめて失う。
不覚に留まる間は、このスタンプを何かと交換する先を見出せない為に右往左往しているとも言える。
交換先などないのだ。
せいぜい端末同士のやり取りによって別のスタンプを増やせるくらいで、それだって本来の神なるあなたがしたいことではない。
押してることすら気がついていなかったスタンプなのだから、やめろったって急には難しいだろうか。
クセで「手が滑る」こともあるかも知れない。
だが、とにかく意識は「結局みんなスタンプじゃないか」というところから出来る限りずらさずに居ると、次第に意識が静かになる。
誰かから貰っても、自身で押しても、自身が他に押しても、「印が」何かを支える(保証する)なら、それは音の通り「因果」なことだ。
喜びは喜びとしてその場で花開かせて、その場で昇華する。
十分に味わうだけでコレクションしなくてもいい。
12日の会の折、お2人程には申し上げたのだが
誰のお墨付きも
要らなくなる
ことが新世界を生きる者としての基本である。
誰からも何からも、満たされているという根拠を得ようとしなくていい。
根を降ろす場所は奥底の全母、虚空以外にない。
その会を主催された方が、前回の当宮記事《差異の愛》についてご自身のブログで触れて下さり、こちらに「差異は彩」と来たことをあげて、あちらでは「彩は咲意」と来ていたと仰られていた。
全くその通りで、全母である虚空の天意が物理次元に花開く、咲く状態が誠に美しく表されている。
差異は彩であり、彩は咲意であり、そして咲意は差異である。
「咲意は差異」が、一番分かりづらいかも知れない。
だが、同質の天意が別々の形となることを十分に楽しめば、それは輝かしい差異となるのだ。
つくづくと感じるのが
物理次元でどんな動きが起きたとして、本質的には
天意に支えられた愛の中で愛が動いている
だけなのだ。
水が水に印を押せないように、
どうして愛が愛に印を押せるだろうか。
満ちた中で様々な動きが「起きている」。
しかもそのように「感じている」だけ。
不動の全母がそれを「観ている」だけ。
だけと書いたが、それだけで凄いことだ。
そして本当に美しく満たされている“これ”が新しいゲームの基盤なのだと分かる。
決心のついた方から、古いゲームは終えて頂くことになる。
スタンプラリーに旨味はないし、実のところ根拠だってない。
いっぱい押すと大丈夫っぽくなる気がするゲーム。
(2016/11/28)