《差異の愛》
「抱くという状態こそ、それが自分そのものではないことを最もよく表している」、と先に申し上げたが、別々であること自体は良くも悪くもない。
別れていなければ分からないこともある。
我々は常に全母に抱かれているが、子(個)という、全母とは違う形とならなくては抱かれることは不可能だ。
質の上では同じ、形の上では別。
この不思議さを思う時、他のあらゆる不思議が色褪せるような、言葉を失う感嘆がある。
一体であるのに別れている。
聖母子像はその事実を描いた象徴とも言える。
一体でありながら別なる状態を観察していると、あらゆることに納得出来る。
納得というのは「そのままで居れ」ということではなく「それがそれであること、それが起きたこと、また変わりゆくこと、その全てに納得できる」ことである。
無限に点滅し、流動し、色合いを変えて、物理次元は無色透明の全母に添っている。
夏の母神祭にご参加いただいた皆様に、先日お受け取りいただいた冊子の最後に「抱擁」というタイトルで文を書いた。
抱擁とはまず、抱きかかえること。
そして抱擁とは、抱きあうことも意味する。
全母と、全一化した物理次元がぴたりと一致し抱きあう時、それは最も大きな「聖なる双子」の姿となる。
人型生命体がそれぞれ、子として全母に抱かれ至福の元に活動し、さらに物理次元全体として全母と抱き合う。
目も眩むような美しい仕組みを明かされ、本当に新世界の現れは始まったばかりなのだと知る。
ここから全てが真に発展する。
以前に上から
差異は彩
と来たことがある。
様々な差異が世界を彩る。
それこそが多様性を無限に楽しむ物理次元の真価の発揮であり、進化の道となる。
彩が濁って罪となる、とも言われた。
一部の色だけを高く評価し、そこから外れるものほど貶めるやり方が、物理次元の色彩を濁らせ、澱ませてきたのだと深く頷いた。
全ての色に異なる美しさがあり、全母は別け隔てなくそれらを天意している。
例えば当宮ではエゴやエゴに類するものに緑を使って表現することがある。
だが、緑は緑でありそれ自体は良くも悪くもない。
単に意識と御神体に青と赤を使った時に、それらと見分けやすいものとして採用した。
紫やオレンジ、マゼンタも便宜的に使用しているだけで、色に善悪はない。
全母の天意も本来は無色透明である。だからこそ全てのものに浸透することが出来るのだ。
そして全ての色を発することが出来る。
それを分かると、あらゆるものの違いが自ずと明らかになる。殊に波動の違いははっきりとなる。
勿論、真の大人についてであるが、違いの分かる大人は、違いを憎む大人でない。
違いを憎む大人はいない。