《岩か岩戸か岩座か》
凡神宮を「ブログ」と呼んで下さる方も居る。
ブログだと思ったことはなかったが、当宮を俯瞰で眺めてみて理由が分かった。
目に見える部分を捉えると、確かにブログの動きに近い気もする。
と言っても、「現状はブログ的な働きしかまだ出来ていない」というのが正直なところである。
3つあるゲートは、中心の「知ってる神々」にて、万物の中でそのつど奉る神々をピックアップする他、さっぱり動きのない「漢字・深・発見」が左、体験を織り交ぜて大回転している「新世界・紀行」を右にしている。
こんな感じ。
何でこの左右かと言うと、「漢字…」の方は左脳、「新世界…」は右脳を担当しているからだ。
理論を紐解いて知識として知ることは、目覚め悟り業界でずっと過飽和の状態が続いている。
それに、「漢字…」で明らかにする新情報は、目が覚めて初めて十全に受け取れる程、きめ細かい高次領域のものばかりだ。
何だって左がストップしたままうんともすんとも言わず、公開させてもらえないのかを、ようやく納得できた。
まずは体験し、感じることが求められている。
いかに“分かりたい人々”が知識をコレクションすることに傾いて、実践をないがしろにして来たのかが浮き彫りになり、見事だと思った。
同じものを見ても、
それが岩に見えるか、
岩戸に見えるか、
岩座に見えるかは
各自で違う。
当宮が岩戸と見えればその向こうには本来の神なるあなたが在る。
岩座であれば神の寄り代であり、上の様々な存在から必要な情報が、時には宮司を介さずそのまま提供される。
岩に見えるのが悪いわけではない。
それは「形で捉えたものを、既知のものに当てはめて整理分類することに長けている」ということなのだ。
それも、進化の道標としてちゃんと用を成している。
余談だが、当宮には奥宮がある。
現時点で上が開く意志をさらさら持たないので、そのままになっている。
以前申し上げた通り、価値の喧噪を抜けて下さらなければこの先の段階の情報は公開出来ないし、宮司としても凡神宮は、誰かの為にこしらえたのではなく全母への返礼になっていればそれでいいので、特に意見も意図もない。
ひらく時にひらかれるのだよなぁと、ただ観ている。
時間軸で、10年先でも、100年先でも、1000年先でも、全体に則していればそれが丁度の時なのだ。
「おいおい1000年先ってそんなの」と思われる方も、もしかしたら居られるかも知れない。
奥宮にあるのはその「そんなの」を引っくり返す情報なのだ。
だから相応しい方々が揃うまで、沈黙が保たれる。
当宮をこしらえるきっかけとなった会を主催される方は、この件についての情報を、宮司の知る限り唯一真っ当に出されている。
だが受け取る側が、目覚めさえも「遠きにありて思うもの」扱いするなら、永遠などそれこそ「夢の又夢」どまりだろう。
順序としては目覚めが先にある。
宮司は、この件に関しては「本当に目が覚めれば、勝手にそうだと知れて、ちゃんと向き合う気になれるもの」として扱っている。
だから起きなければ話にならないし、起きてからはさほどとやかく言うまでもないことなのだ。
奥宮に関しては存在すら伏せておこうかと思っていたが、本日記事にてこの一度だけお伝えする。
以下の一文をお知らせする為に。
覚者が十人揃うまで、
奥宮の情報は
開かない。
先に申し上げた通り、何も待たずただ観ているので、いつになさるかは皆様次第となる。
岩か岩戸か岩座か。
どれでも構わないがともかく“それ”に腰かけて、のんびりと足でもぶらぶらさせながら、今の景色を眺めておく。
清々しい空気と眺望。
(2016/11/10)