《居ても立っても》
目を覚まし、全一に溶け、感覚を開いて、全体の弥栄に尽くし、感謝と歓びに満ちて、愛そのものとして、物理次元を楽しみ慈しむ。
そうした本道を求めて、邁進する人々も。
眠りを深め、個を強化し、感覚を閉じて、個別の我欲に尽くし、興奮と不安に満ちて、我そのものとして、物理次元を彷徨い拘泥する。
そうした外道を求めて、行進する人々も。
どちらにしたって「これは分かる」と言う、無視出来ない気配がある。
予定調和を揺るがすざわめき。
当宮へお越しのグッドセンスな皆様には「何を今更」な話にはなるが、不覚社会にもこのざわめきが分かる位に、じわじわ来ている。
国内外の自然、政治や経済に関する、エゴにとってショックなニュース。
事故や犯罪、突然の訃報などの、エゴにとってショックなニュース。
これまで何となく保たれて来た見えない均衡や、そこに根ざす価値観を揺るがす様な、ショックなニュース達。
地震、談合、八百長、急逝、告発、噴火、流出、高騰、露見、暴落。
こっから観ていると、それは空間を揺する細かな振動が、エゴの絡まった界隈を通過する時に起きている動き。
振動自体は、善悪も正邪も損得も超えて透き通って澄み渡ったものだ。
予定調和を揺るがすざわめきは、本道に向かう者から見れば「希望」、外道に入る者から見れば「不安」に変わるだろう。
何かが始まっている。
何かが始まっている。
これまでとは何かが違う。
これまで通りに出来ない。
どうしよう、どこかへ行かなくちゃ。
どうしよう、どこかへ逃げなくちゃ。
ああ、早く!
ああ、早く!
そんなこんなで、それぞれに変化が起き、物理次元を覆う気配は混沌とし、様々な思いが交錯している。
本日記事で申し上げるのは、
ワイワイ動いていても、本道に向かっているかどうかはその端末の本気次第。
と言うこと。
一本径、みたいな倒木。
どれ程強く悶え苦しんでいる様に見えても、静かに観察すると只単に酔っていて、その酔い方を見て欲しがっているだけと分かる。
その時は全体の弥栄に意識を向けて、「手出しせず、愛でそっとしておくこと」。
酔った者に構うより、ご自身の内なる「居ても立っても」と湧き上がるエネルギーを観察し、深く感じて頂くこと。
恐怖からでなく、愛から湧くのが真の「居ても立っても」だ。
それはエゴの焦りとは全く違う。
この違いの確認を誤摩化して、「何でもアリだよね♪ってホワワンとしてられるものこそ本物だよね♪」で、一切合切を棚上げしてループに入るのが、生悟り。
その退屈さは、皆様ご承知の通り。
良いとか悪いとか、アリとかナシとかでなく、進化変容は全一の流れに沿ったものであるので、
「類人猿であることも、又アリではないですか」とか、
「いつまでも恐竜の楽園で居たっていいじゃない。それもアリですよね」とか、
そんなことを言っても、必要な動きは起きるのだ。
さてそんな退屈から飛び出す、ちょっとした試みをご紹介。
内に湧くソワソワが、『愛と恐怖のどちらに根ざしているかチェック』。
イメージし、内側に問いかけてみて頂きたい。
居ても立ってもいられずに駆け出して、平地は走り、山地は登り、沼地は掻き分けて、全霊尽くし、掛け値なし這ってでも辿り着く覚の世界。
そこに降り立つのが今そこにあるその御神体、そして内側の「感覚」だけ残したものだったら。
感覚だけをそのままに、後付けの条件…名前、出自、財産、性格、交友関係、趣味嗜好、そうしたものは全取っ替えだとしたら。
だとしても。
そこに歓びが湧くのなら。
それは疑いもなく、愛からの「居ても立っても」である。
胸を張って、愛から宣言。
(2018/3/19)