《少数派?》


秋が深まるにつれて、様々な変化が起こる。

人々が歩みを遅くし、足さばきを注意深くしている下を見ると、大抵銀杏の実が落ちている。

明るい黄色、丸いかたち、珍しい香り。

 

中の部分を食べようと実を集める人達を除いて、通過するだけの大多数は笑いつつも結構本気で迷惑そうな様子である。

どんぐりの背比べとか言ったりするが、ドングリはクヌギでもカシワでも、どこか似ている。

ナンテンバラの実は、色鮮やかだが赤いし、銀杏の様には香らない。

トータルで観ると、他にこんな実を見ない孤高の存在であり、「一体何でこんなスタイルに?」と、不覚期から不思議だった。

 


目が覚めてからも

 

「まぁそうしたいからそうなんだろうが、

 

 この独自性の理由について、
 
  銀杏と話せたら尋ねてみたいもんだ」

とは感じていた。

そしてある時、不意に気がついた。

銀の杏と書くように、見た目はに似ているのだ。

 


杏も香る。


但し人には大抵、杏の香り「甘く爽やかな快いもの」となる。

だから似ていると気付かなかったのだ。

全く、一体何を観ていたのだとビックリした。

 


人にとって快か不快かの判定は、世界に薄く覆いをかける

今の今、銀杏の独特な香りは、特に不快でない。

それでも積極的に嗅ぎに行こうともならないので、散歩中の犬達のする、銀杏への熱心なアプローチは見ていて面白い。

犬と一緒にいる人は面白くはないらしく、犬と銀杏の距離を開けようと綱を引っ張っている人も見かける。

 


その、NO銀杏運動の様子から、こんなやり取りが浮かんだ。

「何でこの香りにしたのさ?」

銀杏「別に何かいい感じだと思ったから」

 


犬「僕らも大体いい感じだと思う」


人「じゃあ、馴染まないのこっちだけ?」

銀杏犬 「そう」

 


多様性を言われる世の中でも、『ルームフレグランス・ギンナン』とか、販売される兆しはない。

犬にはもしかしたら好評かも知れない。

自然物に対して邪魔にしたり馬鹿にするとか、人以外の自然物がしているのを見たことがない。

そうした意味で、人は銀杏よりも変わり者な少数派になる。

 

 


快不快や好き嫌いは、人型生命体本来の観察をする役目が、拗れた僻目で行われたことから発生する。

それらが取れたことで、初めて宮司は銀杏真の姿を観れた気がしている。

人と相対する機会には人の様に振舞うこともあるが、それ以外は空間として過ごしている

邪魔にしないし文句もない点で言えば、銀杏側の存在

「人って変わってるよなあ」

 


と、不覚社会を眺めたりしている。

人の大多数も、全体の少数。

(2018/11/1)