今回の記事は母神祭にご参加頂いた皆様に宛てた形にしてありますが、それ以外の方がご覧になられても、お役に立つようになっています。
では記事へ。
《実地の体験》
気温も上がるし、高度も上がる。
上がりまくりのあの場所で、取り繕わない素の今と向き合うことに、皆様それぞれがなられていた。
ところで、夏山を皆様と歩かせて頂いた折の宮司は、様々な道具で3キロを超える荷物を持ち、前日に全く同じコースを下見した後に麓でも1時間以上うろついたので、つまり倍以上の距離を歩いた。
それを耐えるでもなく、特に機嫌も変わらず、汗かいてちょいとボケっとしてても、後はそのまんま。
何でもサクサク軽い様子を、
目の当たりにされることも
祭の重要な意義の一つだった。
山歩きの間、「いやぁ、バケモノ並みで」と自らについて幾度か申し上げたが、
「進化で、化けたもの」
というバケモノ。
山に入ると元気になるのは変容の兆しを経験してからで、
不覚時代は人並みに体調も崩したし、
子供端末時代にはむしろ病弱だった。
生まれながらの怪物(特別な存在)を気取りたがる不覚者も居るが、そうした特別悶着みたいな“バケモン”ではない。
特別どころか何者でもない、バケモノの歩みは軽い。
かけらでも躊躇いを乗っけての一歩と
とれちゃってからの一歩。
二つの重さが全く違うのを、
実際に見て頂けたことは大きい。
躊躇いの欠片は、薄いひとひらでも、その場に居る全員の躊躇いにリンクするので、ズーンと重みが増す。
そう言われてすぐに取れる躊躇いじゃなし、躊躇いの存在を指摘することは追い打ちをかけるだけである。
不覚社会には、「(躊躇いの源である)エゴ=恥」という通念が存在する。
なので、あの場では特に申し上げなかった。
それぞれの上が伝えたり支えることで十分だし、それが一番的確であると、各自にお任せしていたのだ。
途中でお降りになられてもそれは間違いでも悪いことでもないし、「今その地点に在る」と知ることが必要だったというだけの話。
先を促すでもなく、止めを促すでもなく、ただ皆様でおのおの答えを出されるまで、見つめていた。
躊躇いにもリンクするが、横にはバケモノが歩いているので、それにもリンクする。
双方の揺らぎの中、目的地について「来て良かった」の言葉が出たのは、
揺らぎの果てで、バケモノ寄りに針が振れたからである。
実地の体験が強いのは
全身全霊で新しい領域を開くから。
躊躇いか進化か。
歩まれる道の途中で、
二つの力がせめぎあった時、
どうぞ死の辻を越えたあの感覚を
ご自身の内で再生してみて頂きたい。
それは必ず
あなたを中心に
呼び戻す。
世界でいちばん熱い夏を共に過ごして頂き、ありがとうございました。
(2016/8/15)