《安全神話?》
そう言えば、変てこな言葉だと気づいた。
「神話が安全だったことって、あんまりなかった気がする」
大国主だって、ペルセウスだって、結構ハードな行を成している。
神も全然楽ではない。
寧ろ、マトモな神こそ全体に尽くして大きな働きをするし、そこに
「安全柵があって、気い抜いて放っぽってても、上手いこと回る」
と言う、不文律が存在する訳ではない。
もしかして、ゼウスとかあの辺の連中が楽しんでいる「呑気な好き放題」をイメージしての神話なんだろうか。
あれらにしたって、
女追っかけ回したり、
女追っかけ回す亭主を嫉妬で追っかけ回したり、
誰が一番綺麗かでモメたり、
騙したり、戦争したり、自滅したり、星座になったり、
カミって何かな?
割かしろくでもない動きで何かと忙しくしており、確かに持ってる力を奮って好き勝手してるが、それでもそこに
「何かが揺るぎなく保証されてる感」
は別にない。
安全神話の「安全神」って、何ものだろうか。
調べてみると「安全神話」は1995に生まれた新語で、社会で何となくまかり通っていた予定調和が崩れ始めたことを切っ掛けに登場している。
前年の1994には「同情するならカネをくれ」、次年の1996には「自分で自分をほめたい」がそれぞれ流行ったが、今の今は見かけない。
「安全神話」の方は、みんなが言い飽きて出番が減った時期もあったものの、新幹線がガタピシ言い出した昨年辺りで又、戻って来た。
長たらしいと流行っても消えるが、「安全神話」とか「格差社会」、「ゲッツ!」等、四文字位に収めておくと、忘れた頃に戻って来る。
1985に登場した「キャバクラ」の様に、短くてしかも名詞だと一層、定着し易いのかも知れない。
翌1986には「亭主元気で留守がいい」が流行ったのとセットで眺めると、男も女もどっちもどっちであり、何だかちょっと面白い。
安全神話に話を戻す。
崩壊した安全なる神話とは、不覚社会が「何となくの安全柵」にして頼っていた、旧テーマに沿って紡がれて来た物語のことだ。
旧テーマが何かと言うと
不覚状態で、
どこまで“繁栄っぽいもの”が作れるのか試す
&
出来る体験をし尽くす
ことである。
メインテーマだった頃には、当然そこに向けて全母である虚空から様々なサポートがあった。
「進化変容によって全一に還り、栄える」にテーマが切り替わり、旧テーマのサポート期間は終了した。
失って初めて有り難さが分かる、無くした途端に嘆き出すと言うのは、分かり易い不覚あるある。
嘆いているだけで、感謝はしていない。
感謝とはしただけで自然に愛の溢れ出す動きだ。愛を溢れさせたまま、嘆くことなど出来ない。
それまで空気みたいな存在だった旧式予定調和も、機能しなくなって初めて「安全神話」にまで格上げされた。
不穏な空気は祭り上げてお役立ちエネルギーにチェンジして来た不覚の癖も出ているが、そうした行いに気休め以上の意味はない。
悪さをして見つかった子犬が慌てて寝転んで腹を見せたり、頬を舐めて来たりするみたいに、急に予定調和を「神」扱いしても、
「あの頃は良かったなぁ」と嘆いても、
逆に「わ〜、どんどんヤバくなってる!」と騒いでも、
流れを不覚にとって気に入る風に捻じ曲げることは一切出来ないのだ。
手加減求むは子の発想。
(2018/8/9)