《宇宙の大人》

 

今更どうでもいいっちゃどうでもいい話なのだが、宮司が時折自らを宇宙のおじさんと表すのには理由がある。

何だってわざわざ宇宙のと付けているのか。
そして何故おじさんなのか。

と言っても、当初は自らもあまり良く分かって居らず、宮司を名乗る“これ”について表す文章を書いていた時に、

あのおじさん

本来、仏の性別はなし。なので仮定おじさん。


ビジョンが上から送られて来たのが、名乗り出した切っ掛けである。

実際、目が覚めてから宮司は自らについて「何つーか、茶目(ちゃめ)()男気(おとこぎ)で物理次元に降り立った感じ」がしていたし、

当宮を建立した際には、仏と呼ばれる「あのおじさん」や、空海や道真と呼ばれる「あのおじさん」等、

 

色んなおじさん

 

が皆様の元に分け入って来るポイント、言わば「のれん」的役割をすることを提示されているとも感じていた。

なので「成る程な」と受け取って、あのおじさんの画像を乗っけたのだ。

後になって、御神体の支えを受けながらも、こうして情報を発信しているのは男性性を担当する分割意識であるので、それもあってのおじさんアプローチと理解した。

勿論、女性性を担当する「うちのかあちゃん」、つまり御神体があってこその分割意識

 


実際は「おじさん」でも「おばさん」でもあるし、又、どちらでもない。

申し上げたいのはどれであろうがなかろうが、大人であるということ。

大人とは何か。簡単に表すと、

個の都合を残していない存在。

大人は、人の心に“落書き”をして遊んだりはしない。

 


影響を残そうと、我ここに在りを主張して、人心に印象を刻もうとするのは、大人の行動ではない。

昭和期の不良少年少女が、壁にスプレーしたりしていた「○○参上!」に似た行いが、不覚社会には蔓延している。

真の大人はそんなことをする必要を持たない

なので、ここの記事も当然に、誰がどう書いたのかなどお忘れになってしまって構わない。

当宮に置かれた情報や、そこから感じ取れる文字に起こすことの出来ない何ものか

 


それが皆様に届き、理解が深まり意識が進化することに寄与し、血肉となって活かされた時、そこでもう何もかもが十分なのだ。

そうした意識で個を超えた仕事をしている端末として、宮司は自らを「宇宙の大人」と認識している。

だからそんじょそこらにわんさか居る不覚おじさんではなく、宇宙のおじさんである。

「僕・私の傍には、さっぱり居ないんだよな〜、宇宙の大人」

そう、思われた方。

では、あなたがなれば良い。


と言うか、そのつもりが無ければ、こうした記事を読む機会も訪れないのだ。

もう一度、申し上げる。


足りないと感じるなら、あなたが、それになられれば良い。

不覚社会ではずっと社会的責任を帯びたことで、自由に振る舞える若さを失った者「大人」だと認識して来た。

それは、不覚ゲームの一環で発生した誤解だ。

 

 

大人になることと、若さを失うこととは、関係がない。

寧ろ、迷いが晴れたことで活き活きと力が湧いて来るのは、宇宙の大人になってからで、真価の発揮もそれによって起きて来る。

「自分まだ(肉体的に)若いんで」

「前例が周囲にないのはちょっと」

「先にしてくれる方が他で居るんじゃ」

「いや〜まだまだ迷いが多くて」

「未練たっぷりなんです」


様々なご意見が行き交っても、対するのはたった一つのメッセージで足りてしまう。

そのお体で、今、何周目?

宇宙の大人となるのに必要なのは、力量でも才覚でも霊感でもない。

只、のみなのだ。

大人程、楽しいものはない。

(2018/4/30)