《失うということ》
不覚に在る者はとかく失うことを恐れる。
物を失うこと。
人を失うこと。
金を失うこと。
知識を失うこと。
立場を失うこと。
記憶を失うこと。
命を失うこと。
だが、どれも本尊の代わりにある御前立のように、建前の恐怖である。
だから必要に応じて入れ替わる。
人を失う位だったら物を失っていい。
立場を失う位なら命を失っていい。
逆もある。
「物を失う位なら人を」や「命を失う位なら立場を」だって、起こる。
要はその端末ごとに何を重要視しているかで、失いたくないものは節操無くころころと変わり騒ぐのだ。
例えば薄毛は現代では遺伝や加齢から来る循環不全の象徴のように扱われ、不名誉なものになっている。
どういう訳かサイドに髪が残るパターンが多く、ガラガラな会場を埋める為に普段付き合いのない親戚にまで声を掛けてチケットを売るように、遠方から髪を招いて束ね上げ、どうにか賑やかにする工夫を凝らす様子も見られる。
引用:ccpics.net
が、男性の大半が下のような髪型である社会に
雑草ばりにグングン伸びる毛髪の持ち主が暮らしている場合はどうだろうか。
いちいち月代を剃る費用も馬鹿にならないし、油断して出歩くと周囲から「だらしない人」という目で見られる。
物心ついてからしょっちゅうのことなので、いい加減本人もうんざりしている。
爽やかな朝。
目が覚めると、もう習慣で頭に手をやる。
じょりっ
『あ〜、また生えてるわ〜』
この様に、「失いたくないもの」のラインナップは、環境で幾らでも変化する。
「毛髪の喪失」は、全一の場から観れば同時に、「毛が生えてない状態の獲得」でもある。
動き続ける万物の中で、只、景色が変化しただけ。
そのことが分かっていると、自然と全てが最も発展的な状態に刷新される。
頭にエゴ乗っけの不覚者が真に恐れているのはこの、
本当は何ひとつ
失えていない
という事実に気づくこと。
被っているエゴ帽が「恐いよう!」とキーキーがなり立てるのに連動して、まるで自らが恐がっているように感じているだけなのだが、ガチで「MY恐怖」と怯えることが出来るのは、この恐怖から解放されたが最後
二度と戻ることが
出来なくなる
ことを分かっているから。
大一番のドキドキ感によって、エゴに同化される隙が出来ているのだ。
そしてもう一つ。
後戻り出来ない変容に向けて欠かせないのが、燃料となる「不覚消失への恐怖」だからである。
最大出力での燃焼の材料は、最大の恐怖なのだ。震えだって大きくなる。
面白いものでこれにはもう一つの恐怖がセットで付いている。
「不覚消失の
機会を失う恐怖」
永遠なはずなのに、全ては一つで何も問題ないはずなのに、それでもどこか「間に合わないのではないか」という恐怖がうっすらと付きまとうのは何故か。
変容について多くの不覚者が隠し持っている
ゆくゆくは
全プレ
という認識が、単なる期待に過ぎず、実際そうは行かないことを根底では分かっているからである。
不覚を失うのも恐いし、不覚消失の機会を失うのも恐い。
この二つの恐怖を統合し昇華するのは、何にも依らない意志、覚悟をおいて他にはない。
他にはないのに、そのことを隠す為に建前の恐怖でもんどりうって見せているのが2017現在までの不覚社会。
だが、サイドから持って来るエネルギーも日々少なくなっている。
ポンパドゥールもリーゼントも、もう無理。
襟足でリボン結びを作る程度で、果たしてそれも出来てるんだかどうだか。
エゴを持ったままでの活動はこれからどんどん、「何をやっても様にならなく」 なって来る。
抜け続けるエゴを掻き分け、眩しい日の出のように
失おうとしても
失えない世界
が晴れやかに顔を出しているからである。
まさに神々しい輝き。
(2017/1/16)