《四の五の言わずに》
「さあ張った張った。丁方ないか、半方ないか」
と、決断を促す声を聞いて、
「丁(四)かな半(五)かな、丁…いやまて半だ…いやいや、やっぱり丁か…まてよ」
こんな感じで、延々と決めきれない状態に
「四の五の言わねえでとっとと張りやがれ!」
等と一喝したのが、四の五の言わずにの初めだったとか。
この他にも、全く違う由来が伝わっていて面白い。
「四の五の」の四は『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四書、五は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五教を意味し、「四書だの五経だの理屈を言わずに」と、頭でっかちに堂々巡りをする様をたしなめての言葉だとする説がある。
もっとシンプルに、頼まれた事に四つも五つも理由を並べてごねると言う、挙げた理由の数説も。
成り立ちまでも四の五の状態。
どれにしても、「尤もらしい理由をつけて、決定の岐路に立つ手前をキープする動き」である点で共通している。
2018は、呟き程度の音量から炎上の叫び声まで、この上なく四の五の言い易い環境にある。
「みんな言ってればマトモな意見に聞こえる」のは、不覚あるある。
だから、取りあえず四の五の言いながら様子見してるだけの者は多い。
多いけれども、別に無言で狸寝入りを決め込むより、形だけでも四の五の言ってる方がちゃんとなる訳ではない。
「どっちもどっちよ」
「今のままじゃいけない気がする」
「何か変な感じ」
「分かってはいるんだけど」
そうした思いだけが、何の実践行動も伴わないまま蓄積している地域がどんどん広がって、そこに村が出来ても街が出来ても国が出来ても、上へと続くリフトは出来ない。
ロープウェイも設置されない。
どれだけギャーギャー騒いでも、みんなの声に応えて動く歩道が整備されたりもしない。
何となく周囲を見て、安心。
そんな地点に留まる方は当宮境内にはおよそ居られないだろうが、もしそうした段階に在る端末から「あなたも同じ所に居ますよね」としなだれかかられた時は、柔らかく、でもはっきりと
変容は一人道
と、天意を以てお伝え頂くのがベストとなる。
これ以上不覚を拗らせても、当のその方にとってさえ何の実りもない。
四の五の言って近付いた様に感じても、それらは結局ホログラム。
不覚の意識が都合によって生み出した幻に過ぎない。
勿論、自由意志が尊重される新世界では、その身が光に還るまで延々「四の五の言う」自由も認められている。
只、今がどんな時代かと言うと、既に「どんな内容の四の五のを言うか」へ主眼を置かれてはいない。
「四の五の言わずに立ち上がる者」と、
「尚も四の五の言い続ける者」とを、
きっぱり分かつ頃合いとなっている。
四の五のに付き合わないのも天意。
(2018/4/5)