以前申し上げた通り、時とは本来は富記(とき)であり、虚空の記す富のことです。
富(とみ)に二つあり、一つは十全の未知の『十未』、もう一つは十分に味わう『十味』。
月曜記事の“新体験”は十未(とみ)に当たるので、本日はもう一つの富である十味について。
《味》
人間味は人間意識が感じる味わい。
人情味は人間意識が後から味付けしたもの。
それらとは違う、素材の持ち味を滋味(じみ)と言う。
「じ」は、地でもある。
モノコトの素「地」、本質の土台はやはり地なのだ。
といっても地味(じみ)は多くの場合つまらないものを意味し、あまり好まれない。
だが地味が滋味に通じると分かると、地をないがしろにすることは出来なくなる。
地や滋は「慈」にも通じ、虚空の母の慈しみの賜物である。
素材の持ち味を活かすこと。
虚空の天意に加わるスパイスであると分かった上で「感情」を味わうことが、瞬間の最も美味しい頂き方である。
喜びの甘さ、悲しみのしょっぱさ、悔しさの苦み。怒りの辛さ。
酸味は何だろう、と感じた時に上から『切なさ』『嫉妬』と来た。
甘酸っぱい気持ちとは、喜びとコンプレックス(差異の切なさ)の入り混じる状態なのかも知れない。
感情中毒を脱すると、激辛や極甘では分からない、素材が活きた深い味わいが分かるようになる。
辛さや苦しさを人間意識は憎むが、もしカレーから辛さが失われ、コーヒーから苦みがなくなったら、どこかで暴動が起きるかも知れない。
「苦みを取り戻せ~」な暴動じゃなくても、ストレスたまってどっかでボンッと。
苦みは苦しみと同じ文字をあてる。
全ての感情に等しく意味がある。
コーヒーはそれを示す好例ではないだろうか。麗しく苦みを楽しむ。センスいい。
豆を焦がして飲むことを発見した時には「おっ、苦いって、良いじゃん!」な嬉しい驚きがあった筈だ。
無意識的には、本質に近づく喜びも。
苦みばしったいい男、とかありますし。
どれかはよくてどれかはあっては駄目というのは歪みであり、過剰に傾くと感覚は鈍麻する。
選り好みしなければ全体の必要に応じて程よく、ほんのりとした苦さやピリっとした程度の辛さが味わえるのに、甘さばかりを求めて舌が馬鹿になると、逆に「ものすごいしょっぱさや辛さ」でないと知覚出来なくなる。
そしてそれを交互に繰り返す。
女子が人生で一度は言うであろう
「甘いのとしょっぱいの両方あったらずっといけるよね~!!」
「わかるわかる~!」
という状態になる。
また、マイマヨネーズを飲食店に持ち込む人が居ると聞いたことがある。
心底マヨネーズという存在に天意を注ぐ行為であるならそれも素敵だ。
だが、そうした希有な方以外については、出された料理(状況画面)をそのまま味わうことをせずに、自分好みの味、食べ慣れた安心できる味にしようと画策し、エゴの感覚で調整することの象徴として現れているように感じた。
店側で並べてある、「薬味をご自由に」というサービスは、マイマヨネーズとはわけが違う。
あれは虚空と我々分神の共同作業、楽しい遊びなのだ。
素材と調味料の割合がおかしかったために、物理次元は「美味しくなかった」。
よろしくない事態を、「不味い」とも言う。
バランス(好き嫌いなし)。
そして空腹(前のものをちゃんと昇華した状態)が最高の調味料。
(2016/5/12)