《君の名は我が名は》
お目にかかった皆様には冊子等でお伝え申し上げているが、名付けは人が産まれて最初にかけられる呪(しゅ)といえる。
敵との挨拶が「やあやあ我こそは」だった戦の時代からこっち、表立って名乗んなくても色んな「やあやあ我こそは」が今も絶賛継続中。
エゴゲームは自己実現ゲームだからだ。
家名の重みが時代とともに減り、ニックネームやハンドルネーム、ビジネスネーム、筆名、戒名と、仮面の数が増えに増えても、名付けの拘束力そのものは変わらず機能し、世人に影響を及ぼし続けている。
いつにかかわらず、特定の何がしと名乗ることは、空間から型抜きするように存在を定義づける。
物理次元の豊かさの一面ではあるが、どハマりすると本当の楽しさを満喫できなくなる。
美味しい食事に
顔を埋めて窒息
という笑えない事態をご想像頂ければ、近ければ近いほど大事にしている、とは限らないことがお分かり頂けると思う。
名は便利だが、自らとイコールではない。
名にひも付けた人格。その人格が支える前世。その前世が支える特別な関係は、世人に大変好まれている。
宮司は『不覚名物・運命の2人』と呼んでいる。
エゴが膨らんだ物理次元ならではのトレンドで、ご当地土産のような概念。
無限中の一幕にこだわることは、川の流れを撮った写真を、これこそが川だと言うようなものだ。
表層的な正解であり、本質的な正解ではない。
エゴが作った可愛らしいおとぎ話だが、新世界では色褪せてあまり意味を成さない。
ロマンスも友情も、中心に帰らないまま行うなら流転のお遊びに留まり、表層を彷徨い続けるだけなのだ。
何者でもないことの充足感を知ってからは、自己実現の為に繰り広げられる個人祭に興味がなくなった。
『しろ』の名にしたって、名乗ることを決めたのは、それまでに幾度も上からそう呼ばれて来たからである。
しろ、と頭に浮かんだ当初は自らの思いつきだと思っていたが、改めて振り返ると怪しいもので、初めから言われていただけだったのかも知れない。
何も考えていない時、不意に『 しろ 』と呼ばれる。
以前もそんなことがあった。その時は『 覚者 』『 覚者 』と繰り返し呼ばれた。
見えない存在に、『 人間 』『 人間 』としつこく呼びかけられることをご想像頂ければと思う。
あまり幾度も『 覚者 』と呼ばれるので、言い返した。
「それは確かにそうだけれども!」
そんなことわざわざ言う意味が分からなかったからだが、満足そうな気配と共に、以降呼びかけられなくなったことで、何となく呼ばれ続けた意味が分かった。
口に出して認めることを求められていたのだ。
しろもそんなに度々呼ぶのなら、きっと“これ”はしろなんだろ、と思うようになった。
そんな折に買い物に出た時のこと。
店をぶらついていて突然、何の用もない棚に向かって体が勝手に振り返り、目の前にこれがあった。
スーパーやコンビニにも売っている、千円くらいの酒の名前。
その平凡で気安い感じに大変満足し、納得して名乗ることを引き受けた。
しろを白に繋げて聖なるイメージを持つパターンもあると言う。
なる程なと思う。
宮司は白に、余白などオマケや隙間、遊びのイメージを持っていたが、どちらもありなのだ。
平凡でも非凡でも、聖でも俗でも、優でも劣でも。
白星でも
白旗でも
自由自在。
まして白だけでなく代でも素でもある、『しろ』に色づけはない。
自己実現を求めて機能する名ではないので、自由に過ごせている。