《原初記憶喪失》

 

それぞれの体験としては未知なる領域を開いて行く一方、立ち返ることが必要なものもある。
それが原初の記憶である。

 

不覚状態は『原初記憶の喪失状態』と言っても良い。

え~と…何か…忘れている…気が…。 

 

何故ここが「思い出せそうで思い出せない」ままでぐるぐる回っているのかと奇妙に感じていたが、その理由が不意に分かった。

 

目覚め悟りを望む者の多くが、原初の記憶を「情報」として思い出そうとする。

 


 静寂の虚空であった時点、又はビッグバンの瞬間、それらを光景として思い出そうとする。

 

だが、本当に思い出す必要があるのは感覚記憶の方だ。

感覚記憶に、光景はない。

 

全母たる虚空は「全」てであり唯「一」である。


それを外から写真のように写すことは出来ないし、意識を用いてビジョンとして伺い知ることすら本当は出来ない。

あくまで「極めて近いもの」として知覚できるだけである。

 

ビジョンは、上や全母が必要に応じて送ってよこすものを真っ直ぐに受け取る時、大きな変容の力となる

 

だが端末が力づくで「元」や「始まり」を幻視し、その光景から得た仮の安心を以て「これにて全部分かったことにする!」どまりになるなら、当然不安に戻る。

倒れからの、ドヤ顔。

 

不安になるから、とりあえず視えた情報を元に得られるアドバンテージ『尊敬・崇拝・恐れから吸い上げる、権力・財力・魅力』をかき集めて尻に敷き、現世の座り心地を良くしようとする変な動きが発生する。

 

当事者性を持つ『全一・天意』の感覚記憶を取り戻すこと。


それが起きると当然に、あらゆる不安は雲散霧消(うんさんむしょう)する。
そして、戻って来ない。

 

雲や霧の発生源が廃炉になるようなもので、何につけ「巻き込まれる」ということが出来なくなる。

余所から雲や霧が流れて来ることはあっても、すぐに抜けて行く。

 

全一化して(しばら)くの後、原初の感覚記憶を取り戻すことに関して、興味深い体験が起きた。

お目にかかった皆様にはお話ししたことがあるが、自宅屋上で育てている鉢植えの1つ1つにジョーロで水を撒いていた時に、ふと、

 

今まで一度も会ったことがなく、また、これから一度も会わないだろう端末のことも

 

全て等しく天意している

 

ことが分かった。

 

この感覚が、只、自らの内にあった。

何もない内から、外に向く天意。

 

一応申し上げておくが、宮司という“これ”は別に聖人君子ではない。
世間的に見て「くっだらない」ところなど山程あったし、またその「くっだらない」点をも自ら気に入っていた。

 

なので、このような感覚が起きたことに対して、ごく当たり前に驚愕した。

 

『マジかよ!!!』

 

そう浮かぶ中、慌てて「マジかどうか」意識の奥を探ったり、試しにあざ笑ったりしてみた。

だが、どれ程馬鹿にしても、あざ笑っても、この感覚けして内側を去らなかった

 

驚き、呆れ、目を丸くした後、そうした波がしだいに収まり、静かになった時に思った。

 

これがマトモじゃないのなら
二度とマトモになんかなりたくない

 

そして今の今、この感覚こそが真のマトモであると、ごく普通に理解している。

 

この体験を通して申し上げられることがある。

目が覚める時は皆一人である。


まずは、ただただ全母と通じる端末としての至福に満たされる。

至福が満ち足りた時に、「全てを天意している」という全母の感覚が完全に開く。


すなわち原初の記憶が蘇ることとなる。

それは全母の感覚記憶としては復活再生であり、子である端末の体感としては新生になる。
世で好まれ使われる「古きをたずねて新しきを知る」の本来がここにある。

 

二重の意味で喜ばしい出来事なのだ。

 

感覚が表立って(ひら)けてみて分かったが、宮司は不覚状態からこの感覚を、半ば無自覚に有していた。
《目覚めの理由》にて申し上げていた通りである。

 

先に書いた「くっだらない」とは主に、「お調子者」「うっかり者」「怠け癖」「野次馬根性」「行き当たりばったり」「前方不注意」等のことで、思い返すと「被害者意識」「加害者意識(罪悪感)」はそこに無かった。

 

どんな状態になろうともそれは自ら巻き起こしたことで、「何処かの誰かにそうされた」とは思っていなかった。

 

この辺りが、記憶を取り戻すのが早かった理由なのではないかと、目下探っているところである。

 

そんな訳で「被害者意識」「加害者意識」の無い方、もしくはあっても薄めな方。


目覚めの早い班かと思われますので、心のご準備を。

 

思い出す喜び。

(2016/12/5)