《北の国から》
先日、この地で祭を開催してみて、やはり何でもやってみるものだと感じた。
体験に勝るものはない。
闇雲に走り回ればいい訳ではないが、やはり気づきは体験によって裏打ちされ、完成するのだ。
新体験であればなおさら鮮やかに、昇華される。
宮司を名乗る“これ”にとって、このでっかい島はまるきり未踏の地。
メロン・ラベンダー・大泉洋
程度の前知識しかなかった。
これらにしたって「よく穫れる」「よく生える」「ここからやって来た」位しか知らない。
そんなフレッシュさ溢れる状況で飛び込んだ北の大地だったが、「何故ここなのか」については前もって承知している部分があった。
この「カーブでヒュイッと投げた」みたいな形をした面白い列島は、こんなに変てこな形な上に「東西南北」と区切って、色んな所属領分を決めている。
それを脇に置いといて、この列島の不覚者達は最近特に「北が北が」と、問題ある不吉な方角の様に「北」のことを言い表している。
そうすれば自らの北も一緒に祝えなくなることに、まるで気づかずに。
その北じゃなくあの北です等と、人間の勝手な「察して!」は全体の流れには通用しない。
言霊は言霊として、ごく自然に「ありのままで」認められるのだ。
そんな「北に向けた無自覚な呪い」に加えて、体に置き換えると北が頭を象徴することで出てきた影響もある。
不覚で居ると、頭に宿った思考が暴走する。
内なる領域でヒートアップし続ける思考が、「本来そう暑くはならないはずの場所の猛暑」を引き起こしている。
人類意識の頭寒足熱が出来ていないと、物理次元にもこうやって波及するのだ。
頭から尻尾までこの「カーブしてちょいっと走ってる龍」が変容するには、兎も角、まず北を祝うこと。
そんな理由があり、北の国から始めてみることになった。
東北を表す「陸奥」は元々「道奥」と書いたと言う。
北は意識にとっては背後を指し、海は全一に溶けた融和状態の象徴となる。
道奥の更に奥となる、北(無意識)の海(融和)に通じる道(未知)となる場所。
北海道とは本当に凄い名前だ。
もののついでに『北の国から』と言うドラマ作品のストーリーを観察していて、殊に目を引いたものがあった。
それは、
エゴの小競り合い
ピュアだろうが心優しかろうが関係なく巻き込まれる。
自然の厳しさを凌ぐ程、人間関係や経済、タイミング等、不覚のややこしさが炸裂。
雄大な自然に抱かれながら、ちっちゃな人間達が泣いたり笑ったり驚いたり苦しんだりの様々な動きを見せる。
まぁ自然があまりに大らかで、あっけらかんとしているので、小競り合いもいいスパイスとして機能している。
実は「不覚を肴に、自然を眺める番組」だったのかも知れない。
物言う者達の喧騒の奥に、物言わぬものたちの静かなる天意が満ちている。
だがもう小競り合いなしに、ダイレクトに静かな天意を感じることが可能な時代となっている。
そんな知らせを持って行った為か、祭の翌日にはあちこちで面白い親切を受けた。
道案内店案内、忘れ物を追いかけて届けてくれるに始まって、店にあるが売り物じゃなかった「こちらに必要なもの」を、もぎ取ってこっそり渡してくれたり、こっそりと「素敵な席」にエスコートしてくれたり、と何故かしら「こっそり」が多かった。
宣伝せず、ある意味「こっそり」祝いに行ったので、祝われた方も「こっそり」何か返したくなったのかも知れない。
帰ってから知って、つくづく面白いものだと唸ったのが、祭の当日が今年制定された最初の「北海道みんなの日(愛称:道みんの日)」だったこと。
決まったことが地元に浸透せず公募したのに一人しか式典に参加しなかったと言うニュースを読んで、
「道民が一人しか出てない道民を祝う式典ってあり得るのか」
と驚いた。コントみたいだ。
傑作だなぁと笑って気づいたが、そういえば当宮の祭も地元からご参加の方はお一人。何かリンクしていたのだろうか。
全体の構図を一端末が知るすべはないが、破格に面白いことになっているのだろう。
分からないことも又、面白いのだ。
そんな訳で、皆様の進化を全母と共に寿ぐ祭とまとめて、こっそり祝った北の大地を、戻った場所から引き続き観察してみるつもりで居る。
素晴らしいひと時をありがとうございました。
(2017/7/20)
明日もあります。