《動の行》
目が覚めた後の、一切の苦悩や葛藤がない至福状態は、不覚側から観ればまさにパラダイス。
「そんな安楽な境地は勿論『ご褒美』だから、目覚めまでは『とっても辛い困難』だらけに決まっている」。
《教育か調教か》でもお伝えした緊張と弛緩の“飴と鞭システム”に慣れ親しんだ不覚者は、目覚めや至福についてもこの様に誤解する。
だが、そうではない。
至福とは本来、ごく当たり前の状態であり、全ての行動を支える基本。
その当たり前へ戻るだけなので、目覚めは苦しみを伴う困難ではなくそれ自体が『歓び』なのだ。
生みの苦しみは、抵抗があればある程そのように感じられるもので、全員に決まった痛みや苦しみが起こる訳ではない。
その抵抗の元になっている歪みの一つについて、本日記事でお伝えする。
不覚者は気づかぬ間に自他の「行動」の殆どを「労働」に、感じ方の上で置き換えている。
好きなアイドルをおっかけたり、のんびりほっこり旅に出かけたり等の、「興奮か安楽から得られる満足」を伴うケースでない限り、何でも「手間」とする。
それが習慣となって染み付くと、ちょっとのことでも「めんどくさい、だるい」となり、生きること自体「かったるい」と思いながら暮らすようになる。
「行動」の中身が「労働」に置き換えられる時、仕事とも呼ばれる「労働」の中身も又、別のものに置き換えられている。
苦役
これになる。
行動すら実質は労働だと感じているなら、生き抜く為の労働なんて苦役扱い。
飴鞭プレイの中で「前よりもっともっと甘い飴を!」という欲張り根性が膨れ上がり、いつの間にか「苦しんで得なくっちゃご褒美じゃない!」位に認識が歪んでしまった。
苦役と言う汚名を着せた為に、労働は変質化して、「働くことを楽しむなんて有り得ない」という認識が蔓延するようになった。
「好きを仕事にする」というスタイルが、もてはやされた時期があった。
転職自体は良くも悪くもないが、本来「仕事を楽しんで、それを好きになる」のが自然で、エゴナビに導かれた場所替えは気分転換の域を出ず、真の満足をもたらさない。
「好きを仕事にする」という耳に心地いい提示は、「好き、をプラスしなきゃ仕事なんてやってらんない」人々をはしゃがせはしたが、人類進化には大して影響なく、収束した。
そうした無理に煌めかせた飾り文句と入れ替わるように、「ブラック・〇〇(企業、バイト、研修etc)」と黒を貶めるような言い様が流行ったりもしている。
働きと、働く者を貶めると、当たり前に人生が行き詰まって来る。
そんな行き詰まりラインに乗っかった人々を、優越や同情や恐れを感じながら遠巻きに観ている大多数にも、行動の労働化と労働の苦役化はそれこそ平等に染み渡っている。
進化変容を実現する底力を出すには、まず認識の正常化。
行動を行動に、労働を労働に、苦役を苦役に戻すことが必要とされる。
苦役とは、愛なき動きのことである。
どんな働きをしても天意を基にして、その働きに愛が込められていれば、それは苦役ではない。
労働とは、労う働きと書く。
我々は一体誰を労うのか。
勿論、この物理次元を生んだ全母を。
全母が無から我々を発生させなかったら、我々は「自分がここに居る」と感じることすら出来ない。
全母は労だなどと思ってやしないが、その労を労う感謝の働きが真の労働と言える。
本来的には労働も行動の中の一種類である。
勿論仕事も行動であり、やりきると「至る事」で“至事”となる。
行動とは行って動く、つまり全母の視点から観る、我々の姿。
感謝の動きは「全母の子」としての立場に収まるが、労働が行動として昇華されると「全母と子、両方の視点を併せ持ち、動く存在」という完成形となる。
これが真の行動であり、動の行とも言える。
不動の全母から湧き出た分神は動いてこそ、その真価が発揮される。
動の行によって、全体を活性化させる時、その動きは活動となっている。
愛なき動きか。
感謝の動きか。
動の行からの、
活きて活かす動きか。
どれとして動くかは、各自の自由意志にかかっている。
いつだって行動に移せる。
(2017/3/6)