《力溢れる》
一雨ごとに暖かさが増し、時折春めいた陽射しも感じる様になって来た。
日に日に静から動へ、全体の気配が変わって行くのが分かる。
そうした空気と連動しているのか、宮司を名乗る“これ”についても新たな発見があり、驚いた。
“これ”に限らずどの人型生命体にも起き得ることなので、本日記事ではその発見について書かせて頂く。
夕食前に鍋からカレーをよそっていた時のこと。
洗い易い様にベタベタは残さぬと鍋底をさらいながら、丁度その動きをし始めた前後に意識へ訪れたアイディアに向けて、集中をしていた。
集中を続けて、その精度がある段階にまで達すると、意識は輪をかけて明晰になり集中する力も更に増す。
高度を上げるに連れて速度が増すのに似ている。
鍋を掻き回しながら集中がどんどん高まっていた、その時。
「くにゃん」
と言う感覚と共に、肩すかしを食った様な感じになった。
「え、何だ」となって持っていたものを上げて、ビックリした。
スプーンじゃなく、レードル(=お玉)が曲がった。
料理人が使う様な感じを気に入って買った、ステンレス製の厚みがあるお玉で、とにかく丈夫。
と言うかこんな日が来るとは夢にも思わず、これまで丈夫かどうか意識したこともなかった。
それが飴の様に「く」の字になったのを眺め、ハッと気づいて即座に平らな所に押しつけて延ばしどうにか元に戻した。
その後に時間をおいて改めて、曲げられるかと押したりしてみたが、勘付いた通りのことになった。
両手を使って渾身の力ですれば、どうにかならないこともなさそうだが、あの「くにゃん」とは全く違う感触。
つまり集中がそれ程でもない時には、あんな力は出ないのだ。
このお玉は何年も使っており、こんなことは初めてである。
だが、何となく「あ〜、そう言えば」と納得した。
この春めいた陽気と共に何か、妙に力の余る感じがしていたのだ。
“これ”が力士だったら鉄砲でもしたい気分だったがそうも行かず、大体手近にそんな柱もない。
そんな時にお玉が曲がり、これからは全霊で集中する時には「同時に何をしているか」にも注意を払おうと決めた。
エネルギーが溢れた所で、それが弥栄でない動きに向いては意味がないのだ。
スプーンやお玉が曲がることと弥栄は関係がない。
面白い発見として記事でご紹介する位がせいぜいの役立ち方で、お玉を千個曲げた先に人類の進化がある訳ではない。
取りあえず溢れる力の昇華として、ささやかに自転車のギアを1つ上げたりしながら、この変化の季節を味わっている。
全体に活きてこそ、力。
(2019/2/25)