《凡を愉しむ》
凡も並と同じく、ナミと読んだりもする。
「人なみの暮らし」と安定を求める一方で、人は特別感にも固執する。
人より優れている感を味わう自信がない時は、人より劣っている感を突き詰めて行こうとしたりする。
どっちに行ったって刹那の興奮と、背中合わせの苦しみしかない。
それでも平々凡々じゃ嫌なのだと言う思いは本来、
「そこからしか成し得ない、それぞれの進化発展を、全母に捧げる弥栄の動き」
と言う神の本能が、「この私だけ特別、後は背景」とまで濁ったものである。
本能が濁ると煩悩になる。
誰でもないものとして目覚め、「なーんだ、全部が全母である“わたし”だ」と思い出して、あっけらかんとした気が満ちると、凡であることも自然となり、凡の字の様に底なし・底抜けに愉快になる。
不覚からすれば皮肉なことに、凡の愉快さが分かって初めて他に成し得ないことが何でか成し得てしまえる様になる。
そう言えば盆もボンである。
盆踊りの中でも有名なものの一つ、炭坑節を思い出し聴いてみた。
“ひとやま ふたやま みやま越え
奥に咲いたる 八重椿
なんぼ色よく 咲いたとて
サマちゃんが 通わにゃ 仇の花”
サマちゃん?
セクシーな読み解きも出来そうな歌詞だが、そんなことよりサマちゃんて何だ。
この謎の言葉に意識が飛びついて、他は放ん投げてしまった。
調べると北九州の方言で「連れ合い・恋人」のことだそうで、女性が男性に向けて呼んだもの。
「様」で敬意を表し、可愛くて仕方のない感じを「ちゃん」で表す。
何とも微笑ましい呼び名である。
「貴いあなた様」である貴様には付かない、見えないハートマークがサマちゃんには付いている。
「貴様♡」ではピンと来ないが、「サマちゃん♡」なら自然な感じがする。
「様」と「ちゃん」の2つを並べてみて、素直な愛が湧く時、敬意と親しみの両方が自然と溢れるのではと気づいた。
「貴様と俺」の貴様の爽やかさも、サマちゃんのやわらかな愛らしさも素敵である。
歴史を眺めてみると人類は、当人達も気づかぬ間に、そこかしこで輝いているのだ。
“あなたが その気で 云うのなら
思い切ります 別れます
もとの娘の 十八に
返してくれたら 別れます”
時間軸ジョーク。
逆行しない盆踊りの動きに合わせて歌う所が秀逸。
四次元五次元のことなど知りもしない時代にも、感覚の鋭い端末が居たことが分かる。
ガスでの中毒や爆発も起こる、死と隣り合わせの場所である炭坑。
危険を伴う真っ暗闇の空間に降りて行く暮らしを支えた歌なので、全母の天意を我知らずチャネリングして書いていても不思議ではない。
炭坑節は進むにつれて歌と踊りが次第にズレて行く。
そのズレによって場のエネルギーに、円を超える螺旋の動きが生まれていることに気がついた。
そして、踊りが弧を描くのに、中心に立つ櫓は四角形。
円と方の共存に、大陸由来の陰陽道が浮かぶ。
のほほんとしながら、実は魔法に満ちた踊りなのである。
観衆に見せる為の踊りとして、あらかじめ参加者を定める場合も出て来たが、元々盆踊りは特定の年齢や性別の端末達に向けたものではない。
死者の供養として誰もが集まり参加でき、丸く回りながら皆が同じ動きで踊りを楽しむ。
そこに分け隔てはない。
盆踊りは凡踊りでもある。
「死者の供養」は、古いDNAパターンを回転する動きで昇華することを意味する。
だが昇華するのだと分かっていなければ、只の焼き直しになって終わる。
盆踊りと言う全母に提供されたヒントを、不覚の意識達が焼き直しに留めたので、昇華の歓びが快楽の悦びに変換された。
中世から昭和期までの盆踊りが、かなり艶っぽい面を持っていたのはその為である。
もしそれが本道なら今の世に覚者が満ち満ちている訳で、性の解放が変容を起こす訳ではないことが証明される結果となった。
有り難い限りであり、彼らが体験してくれた変てこの集積も礎にして、変容の時代が来ている。
凡とはおよそ全て。
凡である時、並み居る存在をゆるくフラットに観察することが出来る。
そうして何処にも肩入れせず、只、天意からの愛だけが在る時、調和のとれた動きが起き、昇華がなされる。
盆踊りに限らず、その行いを全体に捧げてみる時、集中の果てに自然と、非凡であろうとする肩の力が抜けて凡になっている。
凡であろうとせず、集中で非凡を手放す時、凡は為される。
個でありながら、個を超えることが出来る。
そこに満ちる歓びが凡の歓び。
それを愉しむのが、凡の愉しみである。
個を超えて、天意に捧げる愛。
(2017/6/29)