《公益性》

 

昨年暮れ辺りから、度々これが意識に上る。

宮司の関心は専ら、自らの公益性に照らし合わせて湧く様になった。


どれだけ不覚社会が疑心暗鬼に怯えて騒ごうが、世界は毎瞬新生して、繁栄して行く。

その流れに沿って自然に動いているかが、公益性があるかどうかに置き換えられる。

公益性を「世の中の役に立つ」ことと認識し、それを目指して働く者は大勢居る。

けれど、よく見ると「日本社会」の為だったり、「女性の権利」の為だったり、「貧困家庭」の為だったり、全部、部分だ。

 


それが悪いとは言わない。
只、部分の為だけに働くなら、真の公益ではないと言うこと。

左側から借りて来る感じになるが、公とは「ハ」、そして「ム」は元々□で空間を表していたと言う。

空間が四辺で仕切られたが、略されてム(=無)になるとは素晴らしいメッセージ。

 


虚空と、虚空に通じる本道。それこそが、真の公なのだ。

熱力学では、観察の照準を合わせた部分を(けい)と呼び、それ以外を外界(がいかい)と呼ぶ。


そして「系」「外界」を合わせたものを「全宇宙」と呼ぶ。

その全宇宙をも公は超えている。

全宇宙が、を通りから生滅を繰り返す(さま)

 


公人とは本来、包括してそこに尽くす存在を言うのだ。

そんな公を特定の家に乗っけ盛りしたり、爵位の飾りにしたり。

 

公家さんや公爵殿の、公を私物化するややこしいカルマには「おやまあ」となるが、その昇華が敢えてのチャレンジなら、それはそれで気張ってこなして頂きたい。



目が覚めてあれこれ実践する内に、気づけば関心の持ち方まで全く変わってしまった。

 


全体の進化変容繁栄発展に関係することに、興味が湧き関心を持つ。
 
進化変容・繁栄発展に役立つと感じれば、どんなに不覚的に「目立たない」「つまらない」「アホらしい」ことでもやってみる。

 

逆に役立たないと感じれば、不覚的には大変「晴れがましい」「有意義な」立派な」ことでも、やる気にならない。

こうした関心の持ち方は味気ないどころか、かつてない豊かな味わいをもたらしてくれる。

 

滋養もある美味しさ。

 

不覚期にせわしなく頬張っていた喜びには、常に(あらかじ)め「これこれこうだから喜びだ」と、定められた制限があった。

 

それらは多分、今は砂の味だ。

砂の匂いしかしないから。

 

 
公益性は「出来てないけど頑張るぞ」とモットーに掲げると、おそらくどんどん辛くなる。

まだ自他の壁が厚くエゴも良く騒ぐと言う方は、「目が覚めると、関心の質がそんなに変わっちゃうんだ」とご理解頂く程度で十分。

目が覚めて関心が公益性と自然に添う時、「あぁ、深い所まで開いて来たんだな」とお気づきになられることと思う。

 

覚めて進む面白さ。

(2018/1/18)