《全員野球》
毎回、歯に絹着せない感じの当宮記事だが、これでもやわらかめに整えている部分がある。
お目にかかった皆様にお受け取り頂いた冊子の内容が、記事を読む前の準備運動にあたっており、それ無しでいきなりこのような情報に飛び込むと、心身ともにビックリするだろうから。
小耳に挟み、ちょいと覗く感じでご参拝下さった方々は、アタマでの理解できなさと、内側で響く感じで、もんどりうっても不思議ではない。
いろんな意味で“そのまま”記事を出すのは、がんばれベアーズの打席に鉄球を投げ込むようなものと理解している。
なので多少コース甘めの鉄球にしてある。
元からメッセンジャー役を任じる予定の端末ではなかった為、相済まないことだが、鉄球とおむすびしか持ち合わせがない。
たまにある、厳しくないやつはおむすびです。
何でまた、目覚めや悟りを広く伝達する係は、元々他にするはずの者が居ると言い続けているのか。
それには理由がある。
宮司が自らに向けた記録としてずっと書いている『目覚め日記』は、目覚めた後になって書き始めたものだ。
不覚の日々から日記の開始に至るまで何があったかの記録は残っていない。
それがあれば、一端末の変容過程から、他の端末にも共通する何かしらのヒントを探り出せたのではないかと思うが、実際ないものはない。
しかも進化するにつれて、不覚時代に自分だと思っていた“これ”と、どんどん共感がしづらくなっている。
辛さや苦しさ、葛藤などの激しい混乱が日に日にリアリティーを失ってきている。
だから、不覚再入にトライしてみたり、記憶という形で今の今、何かビジョンが再生されないかと意識を観察したり、出来ることを手探りしている。
不覚時代から記録をとり続けていた者なら、そんな手探りをしなくとも、目が覚めた後に照らし合わせて差を確認できる、『その前のデータ』を持っている。
それは只のデータではない。
その者が、自らの体験を綴った、文字の形をした血であり肉である。
行間にも命が宿る。
だからこそ、変容の岐路に立つ人々の心に深く触れることができる。
それこそが、真の伝え手ではないだろうか。
不覚時代の宮司は、自分についてあれこれ書くどころか、大体、文章を書くこと自体に興味がなかった。
メールなんかはそれなりに書いてたが、後は旅で起きた不思議なことの記録をしていた位。
一端末に起きた変容の全体記録としては、お粗末だ。
ただ、宮司という“これ”が先に起きて働き、主役を張る伝え手達に、襷を渡すという流れに変わったのかも知れない。
主装置がすぐ作動しなかった場合の、補助電源的な。
当初からの役回りではなかったこと、そして当初の方が自然だったろうことを分かっている。
“これ”に変容が起きたのだから、あちこちで他に変容が起きて当然だ。
生き物達が冬眠中の森に春が来た時に、数匹が起きて他の全員を起こすシステムにはなっていない。
ましてたった一匹が目覚まし役をするようになどなっていない。
キリストは、
『起こしてあげるから、ちょっと待ってて』
と言って去っただろうか?
メッセンジャー以外にも、目を覚ましてからする役割は沢山ある。
全員野球、という言葉がある。
現場にいる全員が、惜しみなく各自の持ち場で力を尽くすのが、本当の神のゲーム。
宮司にとって当初からの役割である観察者と、メッセンジャーとは、本来は相容れないポジションだ。
我々全ての端末が本質的には空意識という観察者であるが、ここで申し上げている観察者とは人類の進化変容プロセスの観察者である。
この観察者は、変容に向かう者とそうではない者の両方を中立に観察する必要がある為、変容に向かう者への支援は実を言えば傾きになる。
また、観察には実験もあり、ぼさっと眺めているわけではない。
情報屋の“至事”も、中心からのダウンロード、資料集め検証、文章作成、画像と合わせた編集、アップ等、それなりに集中と実践が求められる。
天意を持って尽くさせていただくことは幸せだが、そこに加えて更に、仏から新しい至事が振られた時に、疑問に感じた。
やればやるほど至事が増える。
本来なら水と油の役割が抱き合わせになる。
で、他の『全一に帰した者』達は何処に居る?
他に居ると言い続けている理由をまとめると、一文になる。
そんな杜撰な宇宙じゃないから。
あちこちから春を感じて目を覚ます者達が出て来て、各自の役割を果たし全体に捧げる。
それこそが本道だ。
とは言え、その場その場でベストを尽くすほかないので、完全なデータの記録者達が揃うまで、彼らの代役で動く。
露払いみたいなものである。
ご参拝下さる本気の皆様の中には、かつての宮司のように、日記や、物を書くこと自体に興味を持たない方もおられるかも知れない。
書く機会を逸した一端末として、申し上げられることがある。
今の正直な現状を包み隠さず記しておけば、変容後にそれはご自身のみならず人類の宝になる。
全く包み隠さずに書くのは難しくても、自分に酔わずに書くことを意識すれば、そこには真実が自然と満ちる。
そんな不確定な先の今を思っての行動は、『今ここ』じゃない気が?
ご安心を。
今の今、皆様にも日記は役立つ。
3つのチャレンジ公開時に書いたように、誰にも見せない日記は感情の吐露から精算に繋がる。
混乱した意識の整理がつき、不要なモヤモヤを文字に託して日記に預けることができる。
誰かに見せる日記は、人の反応を期待したり恐れたりで意識が忙しくなることが多くなるだろうが、変容日記はそれがない。
目が覚めてからは全員が、様々なかたちで伝達の役割を果たす。
人々が集まる席で職業的に行う場合もある。
誰かの岐路にちょいと居合わせて、そこでふさわしい言葉を提供する場合もある。
宮司のように、観察者をしながらという無茶振りは珍しいかもしれないが、いつどんな形で代打が振られるか分からないのだ。
全員野球の為にも、誰にも見せる必要のない日記をつけられることをお勧めする。
本日の代役。
(2016/10/17)