《光り栄える》

 

当宮を建立して1年程した頃だったろうか。


上に問いかけたことがある。

「もう随分書いたぞ!」


しろである“これ”は、でありであるのと同時にでもある。

全体に必要かつ他で降ろしていない情報提供は、上の依り代としてと同時に、本来こうしたことをするはずの端末の代理として始めたこと。

 

その本来はどうしたのかと問うた。

その時、上からは

石の上にも三年
と来た。
「ん〜地道なこと言いやがって」

 

と唸ったが、兎も角その場その場で出来ることをし続けた。

結果、宮司を名乗る“これ”の中で変わって来たことがある。
 
肉親等の、物理次元で俗に言われる“近しい人々”と会って楽しく過ごし、一人で帰る道すがら決まって感じることがある。

 


会える家族については、一員として“これ”の出来うる限り、彼らの弥栄に尽くして行くつもりである。

だが、直接触れ合えない家族には?


名前も知らない、一度も会ったことのない家族は?

このことが毎回、浮かぶ。

全ての人型生命体は質においては全母と同じ、かたちにおいては皆が全母であり、まとめて大きな家族の様なもの。

 

 

ちなみに不覚社会とはその家族達の相当数が興じている大規模なモノポリー。

 

全一家族ゲームであり、不覚社会には飽きても人型生命体への興味を失したことはない。


全ての“家族”端末といっぺんにコンタクトをとることは出来ない。

そんな時。

書くことが出来て良かったなと思う。

結果は確認しないが、少なくとも動くことは出来る。

 

 

この時期は殊に空に浮かぶ星が綺麗だ。

 

一人家に帰る道でそれを見る度に

地に居れて良かったな

と感謝する。

キラキラして美しい空の星には、今ここに起きていることを調べたり読み解いたり、説明したりは出来ない。

 


星にも人にもそれぞれに役割があり優劣は無いが、この地に降り立てたことを有り難く、光栄に感じる。

勝利したり、優位に立ったり、賞賛を得たり、

人は懸命に栄光を求めるが、
光栄に感じると、は勝手にえ出す。

 


光栄に感じる様になって、「本来は?」の問いもあまり湧かなくなった。

どっちでもいいし、出来ることをするのみである。

来たる年も記事として、行くこの年以上に鉄球やおむすびや、ボールっぽい何ものかを放りまくることになる。

 

 

厳しかったりふざけていたり外見は様々。

 

只どの中身にも、この地に降り立てて光栄と言う感謝は必ず込めておく。

 

その感謝こそが、物理次元で活動する端末としての醍醐味であり、歓びだからである。

 


本年のご参拝、誠に有り難うございました。


どうぞ良いお年をお迎え下さい。

 

《12月のふろく》

 

皆様それぞれに、様々なことがあられた2017。

 

2017を冬おじさんのように擬人化し、ありがとうの気持ちを込める“感謝状”をこしらえました。

 

感謝し、決まりをつけ、礼を尽くして行く年を送り出すと、来る年を大手を振って迎えることが出来ます。

 

年末のあれやこれやの手が空かれたひと時に、しみじみと2017と対話する気持ちでお書き頂ければ幸いです。

 

記入例も兼ねて、当宮宮司からの皆さまへの感謝状も添えさせて頂きました。

よろしければ各自お名前をご記入頂き、猿からの感謝をお受け取り下さい。

(2017/12/28)