《体験の意味》

 

 当神宮は大体週2回、月・木を目安に情報発信を行うことにしている。
 これには理由がある。

 

 2016現在、様々な場所から目覚めや悟りについての情報が発信され続けており、書籍からブログから、情報だけなら得放題。

 言い換えれば、情報が多すぎる

 

 文字情報が、常識の上では「かさ張らないし腐らない」としても、集めに集めることによって体験の余地を押しつぶす情報群なら、それは間違いなくかさ張ってるし、腐っている。


 勿論、不覚者だらけの場所で孤軍奮闘を強いられる日々にあれば、意識をフラットにする為のマトモな情報は必要だし、これと思うブログを閲覧し続けることは大きな支えとなる。
 
 ただ、覚醒には体験での落とし込み(納得)が必須であり、どれ程優れ、また真理な情報でも、わんこそば状態になっては元も子もないということ。

 

 

 わんこそばと書いたが、咀嚼する暇を持たなれば、胃の腑に落とすことなく、次のひと椀が来たら前のは「ぺっ」するか、頬袋に詰め込んで置く状態になる。

 

 これでは苦しいだけで、消化しなければ栄養にはならない

 

 消化昇華に同じ。

 

 華と輝かし気の世界に返せば、それは形にして留め置かなくてもずっと共にある。


 一体となるとはそう言うことだ。

 

 本命の情報元にプラスして、他のブログを幾つかざっと回遊して、世間のニュースもそこに加えて、〆に運命を確認する占いなんかもつけると。


 最終的に意識と御神体が頂くのは、「平らげたら賞金一万円!」みたいな量の盛り合わせ、ということになる。

 

 量だけそんなサイズであって、特に賞金も出ないし、食べ合わせも保証出来ない。


 凡神宮の平日に2回ペースは(日々ご覧になる情報が他に1つ2つあるとして、そことの兼ね合いも含め)、

 

 情報を元に内観し、

    

 自身の体験に落とし込み、

    ↓

 消化する、

 

 という流れに邪魔にならない、最適なペースがこれと踏んだからである。 
 
 週2回でも多ければ、まとめ読みにして頂いてもいいし、ピンと来なければ他を優先し、これは全く読まなくても構わない。


 読まれないことで全体の適正な流れに沿うことができるなら本望だし、それに感謝する。

 

 体験の意味を簡潔に書くと、以下となる。

 

 変容も進化も本来、見聞きするものではなく、体験するものである

 

 ということ。情報は体験の呼び水であり栄養だが、体験そのものとイコールにはならない。

 

 情報体験のいい関係を築くこと。


 大元のペース配分は虚空がしているが、その采配にチャネルを合わせ、虚空の意思を汲む力を持つのは各自の分割意識だけで、他にはない。


 何よりもご自身の内観と体験という愛の実践を優先し、その運びにとって過剰な情報は、いかなるものでも削ぎ落とすことが大切なのだ。

積ん読より、削ぐ勇気。

 

 

 ~ご連絡~

 

 お受け取りいただいた冊子の内容を消化して下さると、この先にお届けする情報も十全に味わっていただくことが可能になります。

 

 既に、人類進化に必要かつ、途方もなく美しい情報が、最高のショーを行える程、降りてきています。

 

 富(十未・十味)としてお受け取りいただけますよう、お目にかかる皆様におかれましてはどうぞお覚悟の程、お願い申し上げます。

 

 宮司も又、意識を磨き続けます。

(2016/4/28)