《体育む》
本日は体育の日。
この機会に体育と言うものに意識を向けてみようと思い立った。
体育って何だろうか。
真っ先に浮かんだのは「体育の授業」。
と言うか、これ以外は大体スポーツと呼ばれ、あまり「体育」と言う表現では聞かない。
体育の授業では先生の教えによって、生徒達が各自実践により体を育む。
つまりは先生の教え発信で、生徒の体を育む。
もっとはっきり言えば
意識が体を育む。
成る程、勘違いはここから始まったのかと、頷いた。
身体は元々それ自体に、知性を有する。
不覚意識のこまっしゃくれた浅知恵を「知性」と呼ぶのなら、身体の知性は神知と呼んでいいし、実際その通りである。
「えぇ〜、生まれたばっかは貝より無力なのに?」
勿論だ。
ナイフとフォークを使って食事したり、「いや〜どうもどうも、すっかり涼しくなりましたね」と世間話をしたりするのが知性ではない。
入り組んだ食事も社交もしない、新生児から乳幼児段階の分割意識は、日々「少しずつ世界を観察し、情報を吸収する」働きをしている。
それを支える身体と言う御神体は常に自発的に呼吸し、細胞分裂にしても片時も休まない。
意識が起きていようが眠っていようが、泣こうが笑おうが怒ろうが、その間
絶えることなく
淡々と仕事をしている。
今日は気分が乗らないから呼吸したくないと愚図ったりしないし、
日曜なので一日細胞分裂を休んでじっとしている、とかもない。
どちらがより集中を要する「大人の仕事」かは明らかだ。
成長し発達すると言うメインの仕事の傍らで、
「オムツが汚れて不快」とか、
「ママが傍に居なくて不安」とか、
「何となく虫の居所が悪い」とか、
様々な理由で意識がピーヒャラピーヒャラ騒ぐ主張にも、御神体は協力してくれる。
意識のする主張について
「お母さ〜ん、テスト頑張るからゲーム買って〜」
「別に産んでくれって頼んでない!」
「会って欲しい人が居るんだけど」
etcと、文言がどう変わっても、全て引き受けて「音声化して相手に発して」くれるのだ。
この言葉は言いたくないから、とか、勝手な判断を挟んで来ない。
この「何でもOK 」の深い愛に対し、世の多くの分割意識がしたことは、感謝でなく増長。
好き放題に言葉を発させるのみならず、
鏡を見ては身体を査定し、
学習や運動の成績を見ては身体を査定し、
ニュースやSNSを見ては身体を査定し、
「これが自分」と信じた御神体を、評価に晒し続けて来た。
御神体は
分割意識の
奴隷ではない。
当宮にお越しのグッドセンスな皆様は、もう奴隷扱いの不自然さにはとっくにお気づきのはず。
その上で改めて「体育の日」と言うこの良い機会に、御神体へ全霊で敬意を払うことを誓い直して頂きたい。
敬意があれば無理な要求は謹むし、
敬意があれば相手の邪魔はしない。
意識が体を育むのではない。
不覚の意識の方が、御神体の愛と言う神知によって育まれて来た体の育む存在なのだ。
そして目を覚ました後は、共に育み合う夫婦神として天意からの愛による「夫唱婦随」を全うするのである。
育まれたことに感謝。
(2018/10/8)