《予測不可能》
目が覚めてからは、個人の望みではなく全体の繁栄の流れに則して動いて行くことになる。
不覚時代に求めていたものとはおよそかけ離れた活動をすることになっても、何も不思議はない。
実際、宮司を名乗るこの端末にも、そうした展開が起き続けている。
以前にも申し上げた様に、不覚時代は文章を書くことに興味がなかった。
大体、文だろうと何だろうと“これ”には
自分を表現したい
という欲求もなかった。
何か作ったりしても、それは自然に浮かび上がるビジョンを形にすることに注力していただけで、そこに「自分とはこんな奴です、よろしく」な思いは別になかった。
自己顕示も自己嫌悪もない。
そして、その他大勢とはひと味違った存在となる為の「特別さ」も必要としていなかった。
大分、変人寄りの人生行路だったが、万物に本質的な上も下も聖も俗もないと、納得の必要すらなく既に承知していた。
何て言うか只、知っていた。
そんな調子で暮らして来た存在でもあった為か、文章表現に興味が湧くことはなかった。
大人エレベーターではないが、“覚者エレベーター”があって、不覚時代の“これ”と現在の宮司が会って話が出来たとしても
「目が覚めてから、何か始めましたか」
「始めたことと言えば…そうですね、文を書いてます」
「文?何で?一体何を書いてるんですか??」
「えーと、直近3回で言えば、
使徒トマス
うんこ漢字ドリル
曾根崎心中
について」
「どうしよう、悪い夢を見てるのかも」
こんな感じで、およそ噛み合ないこと請け合い。
階を間違えましたと、帰られてしまうかも知れない。
それ程、不覚時と覚後の動向には隔たりがある。
予測不可能であり、不覚から見ればある種、突拍子も無いことになったりする。
勿論、皆様にとっても。
一部世代の一部地域でしか流行らなかったものだが、
コレジャナイロボ
という表現がある。
お母さんが買って来てくれたロボットが、欲しかったものからは大分ズレた代物。
「欲しかったのはこれじゃない!」そんな叫びを表現した玩具の名称で、それなりにウケて歌なんかも出来たそうである。
「これじゃない!」と思った経験がある人が結構居たことを物語っている。
そこから転じて、思ってたのと違う事象全般に対して使われるようになった。
不覚時代の“これ”にして見れば、うんこ漢字ドリルの資料を確認しながら黙々と文字を打ち込むなど、完全にコレジャナイ以外の何ものでもないだろうが、宮司となった今では満足している。
目が覚めて暫くは、「日記で書いてるのをみんなにも分けてよ」と言う上からのオーダーに渋っていたこともある。
それは元から文を書いて公開したい奴がやれば良いし、やるはずのものなのでは?
そう認識していた。
だがある時、「出来る限り全体に貢献して行かないと、この物理次元どうにも埒が開かない」ことを強く感じて憤る機会があり、
「えーい!もう何でも良いから、全体の貢献に何か使えるもの!」
と、自身の能力を箱ごと引っくり返して総ざらいした。
「全体の貢献に」と付けた途端、びっくりする程、何もなくなった。
「こんなに無能とは」と、ポカーンとしたまま眺めてたら、空っぽの様だった能力箱の底から、
「そう言えば本はアホ程読んで来た」
「そう言えば興味の範囲は広い」
「そう言えば深刻さや有難味を出さずに説明が出来る」
「そう言えば腑に落ちるまで捜査の手を緩めない刑事ばりのしつこさがある」
等の変なパーツが出て来た。
「じゃ、これとこれを組み合わせて…わー、やっぱり文章か」
そんな作業を経てようやく、上がして来たオーダーも全くの無茶振りではなかったことを知るのである。
一端末の楽しみとして書いていた、覚後の日々に起きた面白体験の記録『目覚め日記』が、でかいネタ帳に変わった瞬間でもあった。
そこから冊子になったり当宮が建立されたりとあれこれあるが、それはもう書いたので省く。
「書くこと」は上のチョイスであり、全母のチョイス。現在の宮司には、言うなれば
コレジャナカッタガ
コレデイイロボ
となっている。
何故ならこれまでして来たどんな仕事よりも、新世界の開墾に役立っていることが、つくづくと分かるからである。
おかあさんチョイスに勝るロボなし。
(2017/6/12)