《不覚の一瞥》
世間でスピリチュアル業界と呼ばれる、癒しや魔法に並べて目覚めや悟りも扱ったりするあれやこれやの活況を、ごくたまに眺めることがある。
大体が「覚醒って(人生上)美味しいの?」に納まっているので興味は湧かないが、定点観測で観ている。
そこで幾度か見かけた表現で、覚醒の一瞥という謎なものがあった。
今でこそ、そういうものがあると知っているが、初めてそこを読んだ時には驚いた。
戻り方なんて
あるのか?!
そのように表現するくらいだから、おそらくあるのだ。
チラ見の間、本腰は不覚に残しておいて「よっこらせっと」戻ることが。
そうした行き来をした端末は、今のところ不覚以外を体験していない未覚の端末との共感度が高い。
だからこそ、集中して話を聞こうという真剣味が未覚の側に発生する。
他より自分のことがまだまだ重要な場合、「自分(達)のこと分かってくれるし、一緒な存在」からのメッセージの方が、より熱心に聞きたくなるのは当たり前。
いくら新情報を降ろしていると言って、全一に溶けている宮司は、未覚&一瞥派の蜜月と比べて、とんと意識の距離がある。
だいぶ遠いし、狭そうだ。
浮世離れし過ぎて余程本気の方達でないと、この言葉に真剣に意識を向けようとはしないことも良く分かっている。
本気な方々のより深い理解に役立つよう、力を注ぐのは自然なことだ。
なので、宮司というこの端末を“ある変化”にさらす実験をしてみた。
覚と不覚の違いを、もっと的確に表現するには。
覚の状態について宮司の現状を見渡し、「これ…戻ったり出来るのか?」と不意に思った。
不覚を感じ直すことが出来れば、違いを確認してもっと分かりやすく伝えられる。
「…いやいやいや、戻らないし!」
と、咄嗟に意志でその思いつきを押しのけた。
金輪際で生きているのに二度と繰り返しなどするかという意志からだったが、それも制限だと分かった。
宮司という“これ”ひとつが覚醒を保つことと、他の端末へ覚醒の感覚が伝わること。
どちらが全一に則しているかなど、尋ねなくとも分かる。
不覚に再入してもし戻れなくとも、それも全母の求める流れであるし、
必死こいて守らねばならない覚醒など、どのみち大した覚醒ではない。
そこで本気で意識を集中し、戻れるかを試してみた。
出来ない。
その驚きに何故か、『オースティン・パワーズ』のドクター・イーブルの、小指を立てて窄めた口元に当てる、という仕草が出た。
どの感情にも属さない感じだからか。
出来なかったという結果を日記に記録することにし、「戻れるかを試してみた」と書いてる間に、面白いことが起きた。
一瞬、全一感が遠のき、たった一人で空間にポンと放り出された、という感覚が起きたのだ。
一瞬、というか体感で十数秒。
急に視界の印象が変わり、自分とはこの肉体としか感じられなくなった。
後の空間や物はまるきり他。
そしてまた溶けるように全一感覚に戻った。
あ、やっぱ戻れんの!
けどそんな一瞬て
『不覚の一瞥』かよ!
あまりのことに思わず笑ったが、「ふんっ」と息を止めるくらいの戻り方は出来るみたいだ。
そういえばオーダーからちょっと時差が出るのは、わりかし有名な”現象化あるある”、とも気がついた。
「不覚だったけど怖いとか寂しいという感覚は別に無かったな、でもあれは心細いというのも分かる」
などと思い返すさなか、ふと気がついてちょっとビックリしたのが
全一でありながら、これまでよりクリアな視界
というものが、実現していた。
恐らく『不覚の一瞥』で、不覚というものに対する抵抗(内的制限)が解け、一段覚醒が深まったのだ。
拘りをなくすことが、進化を呼び起こすと改めて分かった。
面白い!
そして大変喜ばしいことに、全一感が遠のいた十数秒の感覚を「あんな感じ」と、ふわっと思い返すことが可能になった。
それが分かった時に思った。
今日(こんにち)的な表現ではないし、やり方もちゃんとは知らないが、
この喜び、カズダンス級
トライしてみても良かった。
多分ただの小躍りになったと思う。
兎に角それ程、嬉しかったのだ。
垣間見て大正解。
(2016/8/22)