《不出来を愉しむ》
物理次元上で、人型生命体は様々な活動を行う。
仕事、学業、趣味、娯楽。
することは数多かれど、何にでも共通していることがある。
どうせやるなら、
上手くやりたい
そして
始めたからには、
上達したい
と言うこと。
「そんなの、当たり前じゃない」
と言う方も居られるかも知れない。
上手くやることや、上達することを悪いとは言わない。
おぼつかなかった動きが、次第に滑らかになり、迷いなく行える様になる変化を、繁栄だとすることも間違いではない。
只、誰しもが、狙った何もかもを「上手くやる」必要も何処にもない。
「その一足が道となる」訳で、意識が集中した方に向かって、新しい世界は開ける。
つまり、日々「思い入れがあるもの」だけに意識を集中して、それを「上手くやらねば」とだけ念じる時、
モノゴトハ
ウマクヤラネバ
縛りが発生する。
「思い入れがあるもの以外」と「上手くやらない」を意識が黙殺することになり、当然に、出て来る世界は歪んだ広がり方をする。
余裕がなく、部分的に「つれた」状態になり、完全繁栄にならない。
余裕を取り戻す為に始めた訳ではないが、結果として余裕を生んでいる行いがあるので、本日記事にてご紹介申し上げる。
それは、
不出来なら不出来を愉しむ姿勢で、敢えて慣れない分野にトライしてみる
こと。
わざと手を抜くのではなく、全力でやっても「まぁ不出来で不思議はなさそう」だと感じた所に、
敢えて不出来を拾いに行く
これが、余裕を生む。
孤独と並んで不出来程、祝われぬものもないからである。
「今年は作物の出来がいい」や「出来の悪い部下でお恥ずかしい」等と、何かと気にされる出来映え。
周りに比べて上手く出来ていなかったら悲しくなったり、ちゃんと出来なかったらどうしようと緊張したり、出来の周辺はいつも忙しい。
不出来はそれこそ「出来る限り」避けられて来たし、疎まれて来た。
そんな風に落ちこぼれた不出来を拾いに行くと、どんなことが起きるか。
皆様は趣味等始める時に「上手に出来そうだ」と直感されたことはないだろうか。
不出来も直感で捉えられる。
例えば宮司にとってはDIYがそうだった。
出会った途端、何故だか「そんなに上手くは出来なさそうだ」と直感した。
案の定、壁を塗ればペンキはむらになったり変な所に飛んだりするし、棚を作れば釘が真っ直ぐ打てない。
決してわざとやっている訳ではないのだが、
「あれっ、曲がるかも」
と、打つ瞬間に感じ、実際曲がる。
その事態に笑ってしまう。
そして、変な角度に変な長さで残って立っている釘を見ていると、その姿が妙に面白く、又、笑ってしまう。
すまんすまんと詫びて釘抜きで引っこ抜き、今度はもう少しゆっくり打つ。
すると何とか「5%曲がり」程度に落ち着き、ゆるい完成度のちょっとガタガタする棚が出来た。
不出来なものが出来ると言う、妙な事態。
結局、不出来とは何も出来ないことではなく、「上出来ではない状態」を指すのだと気づく。
こんな感じで気づきも含め、大変面白かった。
もし宮司と言う“これ”が家具職人や大工を志望していたら、どうなっていたやら。
全ては未知なので「先の今」で、そんな才能がいきなり花開き、戸建ての建築でも請け負う可能性も0ではない。
だが現時点ではシンプルな犬小屋だって、作れば施主からクレームの嵐になるだろう。
「寝返りだけで揺れるワン!」
「ゆる犬小屋」とか銘打っておけば、いいのだろうか。
なるべく丈夫には作るが、取り敢えずガタガタはする。
矛盾するが「安定のガタガタ具合」である。
棚作りにふわふわした腕を振るいながら、普段使っている家具、住まい、利用している駅やビルや橋の頼もしさに気づき、感服した。
よくそんな風に出来るものだ。
不得手なことの不出来を愉しみながら、それが得手である人々の出来の良い仕事に感謝する。
そうすると、いつの間にか「出来不出来」から自由になる。
DIYの出来なさは体験したので、角度を変えて又、フレッシュな不出来を愉しんでみたい。
「スケート」で足をグラグラさせている姿が浮かんで笑い、次に「書道」が浮かんだ。
ペン字ですら大きさがバラバラで、身代金要求の「コドモハアズカッタ」みたいなタッチになることもある。
書道でも、ダイナミックな不出来が味わえそうだ。
もし上手く出来たとしても、それもそれで面白い。
不出来を祝うと、余裕が出来る。
そして余裕は自由を生む。
無理に不出来そうなものを探さなくとも良いが、「わ、何か上手く出来なさそう!」と感じるものに巡り会って興味が湧いたら、拾いに行かれてみては如何だろうか。
上手に出来ない世界と言うのも十分に味わい深く、愛おしく、愉しいものである。
出来不出来、和して深まる愉しみ。
(2017/6/22)