《テーブルマナー》
如何にも「もの言っている」として扱われながら、実際は全然もの言ってない存在がある。
代表例が、言葉と金銭である。
本日はその中の言葉について申し上げる。
「言葉は形に過ぎない」
「言葉が誤解や距離を生む」
「言葉に意味はない」
「言葉にとらわれて本質を見失わないで欲しい」
世間でよく言われることをざっと書いた。
「内面に言葉以上のものを有している」自信から言っていたり、他者の発する言葉の無礼さに憤るあまり、「ごく当たり前のこと」として言っていたり。
ご覧の通り、こうした発言の全てが言葉を使って為されている。
手話や絵文字ではない。
言葉に意志疎通を頼みながら、その言葉を真理の障壁であるかの様に言えば、受けとる側はもどかしさを感じるだろう。
何故なら「伝えたい」「受け取りたい」と双方で感じているその真理も、言葉の力を借りて伝わっているからである。
言葉は、ナイフとフォークに似ている。
ナイフは振る舞われる対象を、飲み込むのに適した大きさに切り分け、フォークはその一つずつを取り易く刺すことが出来る。
言葉も、流動的な万物からその奥の全母までありとあらゆる存在を、「それ以外と分けて」飲み込める様、意識の前に置くことが出来る。
「言葉に意味はない」と言うことは、
「ナイフもフォークも金属で結局食べられないのだから、食事する上で意味はない」と言うのと同じである。
自分らで工夫して磨いて来たのに、
「所詮は金属。
喰えないんだから」
と言うのもおかしな話だし、オール手づかみで行くことが、最も素材を生かすことにはならない。
こうした“手づかみ回帰派”が嫌っているのが、逆にテーブルマナーに拘り過ぎて味わう歓びより、形式の権威の方が重要になった人々。
外側でなく中を観よ、とは大切な真理であるし、言葉を散々に用いながら、中身は天意からの愛も進化も無い者達の様子を見て、うんざりするのも分からなくはない。
だが、うんざりするなら形式中毒者の「粗末な意識状態」にであって、せっせと働く言葉に対してではない。
言葉を発する側と受け取る側。
双方が、それぞれの感覚で言葉を使っている。
受け取る側にとって言葉がナイフとフォークであるなら、発する側にとっては調理に使う包丁と言える。
素材(伝えたい事象や真理)は
包丁(送り手の認識)で切り分けられ、
料理(文章)となって皿に乗り、
ナイフとフォーク(受け手の認識)で
もう一度切り分けられる
送受信で、言葉は二度使われている。
調理者と食べる者と、それぞれ言葉への認識が異なっている場合、「食べづらさ」が発生したりもする。
包丁さばきが気に喰わなかったとしても、「何が調理されているのか」が最も重要であり、その素材に注意深く意識を向けてみることは大切。
意外と愛の滋養に満ちていることもあるし、逆に殆どがお飾りの場合もある。
言葉は全体から部分を切り分ける「刃物」であるので、固まってる場所があれば傷つけたり傷つけられたりも出来るだろうが、車が「人をはねますから悪です」とはならない様に、ナイフも「人を刺しますから悪です」とはならない。
車もナイフも言葉も、何かやらかすときは「100%人ありき」。
人の危険性について人は言わずに、車やナイフや言葉の危険性を言う。
「死人に口無し」ではないが「物に口無し」と責任を押っつける時、当然に、出て来る事象がどんどん歪んで行く。
基本中の基本として、
言葉を使われることで、言葉は何も得をしない。
「い」「ろ」「は」に始まり、ありとあらゆる仮名、漢字、英字。
何をどれだけ使おうが、言葉そのものがそれで何かを得ることはないのだ。
只、話す者や記す者の意志に応えて、働いてくれている。
見返りも求めず、話者や記者を選んだりもしない。
健気、とは本来こうした状態を言う。
その健気さへの感謝を忘れた者の発言は、どんなに熱意を乗せようが滋味に欠け、痩せたものになる。
粋や雅や何やかやで飾る前に押さえておく必要のある、最も大切なテーブルマナーがある。
ちゃんと真っ直ぐ席に着くこと。
意識が中心に在り、正面切って対象に向かう時、自然とその向き合った物事の本質を捉えることが出来る。
落着かないと、味どころじゃない。
半ケツで隣のテーブルや厨房を覗き込んで、ナイフさばきや包丁さばきに文句言ったって、仕方がないのである。
言葉は敵ではない。
愛で用いれば、あなたにとって最も味わい深く、美味なる一口を運ぶのだ。
向き合って、いただきます。
(2017/7/10)