《チャレンジ1・印象操作をやめる》
ヘアスタイルやファッション、メイクなどでの外見編集から既にそれは始まっているが、不覚社会では声や口調や態度など様々な手段を用いて、他者の持つ自らの印象をより良いものにしよう、と引っ切りなしに操作しあっている。
コミュニケーションの歴史は、印象操作の歴史と言っても良い。
それは余りに古いクセである為、染み付いて地色のようになっていて、それをしているという当人の自覚さえ無くすことができる。
だが、冷静に自己を俯瞰で観て、ある一定のイメージ(その時そう見て欲しい自分像)へ、相手の持つ印象が定まるように仕向けている動きがないか、チェックしてみると、ハッとされる方も多いのではないだろうか。
優しく見える為に、優しくする。
強く見える為に、強い口調になる。
相手に守られる為に、弱さを押し出す。
巧妙になれば成る程、それはさりげなく、淡く、動きが小さくなり、相手側のアクションを引き出すやり方になって行く。
露骨な働きかけから、匂わせる程度に、もっと巧妙だと全くそれと分からないやり方で誘い出すかたちになる。
平安貴族あたりの動きに顕著な例を、それこそ幾らでも見ることが出来る。
「香炉峰の雪は御簾を高く上げて見る」的なやりとりを通して、人はどのくらい自分の思い通りに人が動くか、また、どのくらい思い通りもしくは期待以上の返答をして人の心証を良く出来るかの確認に腐心して来た。
階級がものを言う場所にあればある程、そこは数多く踏襲されて来たので、「似非(エセ)貴族脳」とも呼べるプログラムには轍(わだち)がキツく刻まれている。
叡智をもって全一に尽くすことを歓ぶのが、真の貴さ。
それが出来る者が一定数居て、その集団を貴族と呼ぶのは、結果として誤りではない。
根本を言えば、全ての族(群れ)はなくてもいいのだが結びのかたちとして。まさに、結果オーライ。
そうではない似非貴族が、やりとりの根底にあるエネルギーの奪い合いをごまかす為に、まぶした化粧砂が「教養」というお題目である。
知る喜びを深めて行った先にもたらされた、純粋な教養も勿論ある。
だが、その果実を自己実現や生存競争を目的とした社交術に利用するなら、教養も腐って来る。
教養で得られるアドバンテージを誇る者は多いが、他者を操作しエネルギーを奪う腕っ節が強いことは、別に偉くもなんともない。
単に、
手癖が悪くて
図々しい
だけである。
全一に則してみれば明らかに、そうした連中が嫌っているはずの「みっともない動き」であり、真の貴さとは何かをまともに考えた者は居なかったのかと首をすくめたくなるが、「じゃない方」の好例としてこれはこれで有り難く活用させて頂けばいい話だ。もうしなくてもいいことの説明に実に役立つ。
似非貴族は、そうと見えないアクションで、相手を誘導しエネルギーを搾取する。
待っていて、獲物がかかったら逃さない。
自然界では、蟻地獄に似ている。
出典:ja.wikipedia.org
地も闇も、分け隔てをしない包容力があるので、そこに紛れて巣食うものが居る。
蟻地獄は一番楽そうに見えて、実は一番不自由だ。
巣穴のある場所から、どこへも行けないのだから。
印象操作を行うことは獲物だけでなく、行う当人のエネルギーも著しくすり減らし、同時に制限をかける。
人類全体で相当強力にクセがついているので、「はい、やめます」でスッパリやめに出来ることはなかなか無いだろうが、やめることは出来る。
それが今回ご提案する1つ目のチャレンジになる。
1.まずはっきりと印象操作をやめることを決める。
ご自身に向けて宣言されてもよろしいかと思う。
2.そして印象操作をしたと気がついた時は、即その場でやめる。
取っている行いから操作の意図を抜けばいいので、だるまさんが転んだみたいに動きそのものをストップしなくても良い。
そして反省も、全く要らない。
一秒前も過去でチャラだし、人類全体でのクセなのでメルマガみたいにクセに関する情報がデータ配信されたりもする。
意識の波長がそっちに合っていれば知らぬ間に“おかわり”が盛られていることだってあるからだ。
なので倦まず叱らずに、「庭の隅に雑草生えてた」くらいの感じで、引っこ抜き続けることがポイント。
この1の宣言と、2のたゆまぬ繰り返しで、次第に印象操作のクセが抜けて来る。
操作回数が少なくなり、又操作していることに気づくまでが速くなる。
このチャレンジは、世間で上流階級や勝ち組や成功者とされる人々と普段の付き合いがある場合、結構難しさが増す。
真の豊かさの体現者も居るが、いわゆる汗をかかない人々は2016時点ではまだその殆どが、印象操作で食っているようなものだから。
そうした牛車や馬車から降りずにアセンションしようとする連中からの働きかけは終始寝言なので、構わなくていい。
ちょっとご注意頂きたいのが、彼らは自分たちの領域に入って来た者と出て行く者の把握に非常に敏感という点。
社交地図が彼らの安全を保障すると思っているから。
なので何かとチェックが厳しい。
いたずらに刺激せず表面上の付き合いは保ちながら、意識は彼らから離されることだ。
逆に下流や負け組等と自身を設定している人々に接する機会が多い方は、彼らの偽悪・偽善モードに引っ張られないように意識を中立に保たれることをおすすめする。
清貧信仰と言えるが、貧しさを優しさや人情で飾ってエネルギーを補填しようするパターンがある。
これとは逆に、自虐や自暴自棄でエネルギーを引っ張ろうとするパターンもあり、どちらもまた印象操作の嵐だからだ。
だが、こちらは自分が生きるのに精一杯で何につけ余裕がないので、他人の動きに早々構っていられない。
つまり上よりは監視の目が多少粗く出来ている。独立した動きをする時には意外と、下の方が少しだけ自由度が高いように感じる。
上でも下でもない中流ポジションなら楽かと言えばそうでもない。
数はこのポジションが一番多いので、上流程監視の目は無いが、「流される」力が一番大きい。
加えて「それなりに素敵に見えること」に執心して、その確証を得ようと、皆で手ぐすね引き合っているからだ。
ラグジュアリーでもゆるふわでも人情派でも病ンデレでもきらきらでも、ある特定のイメージへの誘い込みは印象操作である。
宮司は新宗教と呼んでいる。
更に言ってしまえば、個人という概念が既にひとつの宗教なのだ。
お門違いの折伏をやめることで、もたらされる素晴らしい恩寵については冬の解答で詳しくお伝え申し上げる。
その前に、印象操作を卒業することが、途方も無い解放をもたらすことは、既にお気づきになられたのではないかと思う。
自分大好き個人教。
ちょっと可愛いがバランスは悪い。
(2016/10/11)