《セルフサービス》
お目にかかった方には申し上げたこともある話。
目が覚めてから少しの間、腹を立てていたことがある。
全一感覚という当たり前のことについて「ありやなしや」とか、「それはどんなものかいや」「こんな風なものですぞ」と言った本は幾つも出ているが、その先のことについて書いた本が一向に目の前に現われない。
勿論、面白く書いてある本で、というかその後のことなら当然に面白いのに、それがない。
「目が覚めて新しく分かったこと」、只それだけでも良かったのだが。
本屋に行ってはプンスカしていた。
目が覚めるとプンスカから「ま、いっか」までがあっという間。しかし立ち寄る度に又、「何だよ!」となる。
別に映画でも音楽でもいいし、何かの論文であっても構わない。
とにかく、その後の広がりを観たかったのである。
ある日、もういい加減に飽き飽きして
「いつになったら目覚めた者の書いた面白い情報が観られるんだ!?」
と上に言い放ったら、
ぺっ
と、本当に「ぺっ」としか表現しようのない感じで、ビジョンが送られて来た。
広い会場に、巨大な長いテーブルが幾つも置かれている。
それぞれのテーブルを囲む様に沢山の椅子が並んでいるが、座っているのは宮司である“これ”だけ。あとは空。
部屋の外では忙しそうに動く気配や足音が感じられる。
これから到着する面々を出迎えに行く影、遠方からの連絡を受け付ける影。
影しか感じられないが皆、働いている。
てんやわんや。
そんな中で、会場にひとり置かれた宮司がしていたことと言えば。
自分の前にある茶碗を、両方の手に一本ずつ持った箸で叩く。
「腹減った〜飯喰わせ〜」
と言わんばかりのこのアクション。
この「飯」が先ほど求めていた面白情報であると瞬時に気づき、赤面した。
誰もが各々の仕事をしている。
誰もがそれで精一杯なら、そんな中で「到着したから」と言って、何も出て来なくても文句は言えない。
恥ずかしくなった時に、冷蔵庫か冷凍庫のような場所のドアを開けて中を覗く、この端末の姿が再びビジョン化して観えた。
「チンして食べてて! 」
成る程、自由意志で辿り着いた地平なのだから、味わいたいものがあればそれもまた自由意志で実現する、というのは当然と言える。
自由の地平は自力を惜しまない地平でもある。
「そうだよな。皆、手一杯みたいだし、とりあえず虚空の蔵から出して来て、自分であっためて何か食べよう」
と、それからは知りたいことや新しい面白については自ら受け取って文字情報化するようになった。
目覚めてから起きた面白い出来事を記録していた日記の中にそれらが加わり、冊子を構成したり当宮でお知らせする情報ともなったのだから、不思議なものである。
自由の地平は自力を惜しまない場所。
したがってその地平に向かう者も、自力を惜しんでいては決してそこに着くことはない。
同じものが引合い、同じものが出会う。
そして同じものが一体となる。
宮司という“これ”も、自らの乾きを満たす真実と溶け合うまで自力を惜しまなかった。
惜しめなかった。それ程までに乾き、もがいていた。
だが結果として、「惜しまなかった」。
そのことは胸を張って申し上げられる。
目が覚めると悩み苦しみは無くなり、その一方で行うことは増える。
そしてそれが、歓びである。
宮司という端末には逆立ちしたって出来ないことが、変容後の皆様に可能であったりする。
それぞれが、出来ることを成すこと。そこに軽重はない。
たまさか、“これ”には今、書くことが割り当てられている。
入力仕事をするデスク脇のボードには、マジックで描いた「おむすび」の絵が貼られている。
変容に向かう道は一人道であるし、凸凹もあって中々にハード。
そんな道のりの最中で意識の栄養補給になる、おむすび的な記事が必要と理解して貼っつけた。
鉄球も投げているが、出発点は全母の母心。
宮司からすれば子としての腕の見せ所、おかあさんのお手伝いである。
勿論、自らを楽しませるセルフ面白サービスにもなる。
この端末一つの求めでは到底受け取れないような気づきが、記事の為に与えられたりする。
あらゆるものが、全母である虚空が生み成す動き。
宮司という虚空がこしらえて、
皆様という虚空が召し上がり、
その満ち足りが虚空に広がって、
虚空である全母の歓びとなる。
究極のセルフサービスと言える。
春メニューも大盤振る舞い。
(2017/3/30)